【香林坊2丁目】
明治2年(1869)の版籍奉還、明治4年(1871)廃藩置県により、城下町金沢は激しく動揺します。武家屋敷の空家が目立ち、広坂通り、石浦町や柿木畠もご多分に洩れず高禄の武家も空家になり、当然、香林坊周辺の商家も店じまいや没落が目立つようになります。
(今の片町より香林坊)
明治5年(1872)には、金沢県と大聖寺県の合併により、石川県庁が手取川の港町美川町に移転し、金沢の人口も4万人ばかり減少し8万余人になります。県庁の移転は、明治新政府が知事を石川県に派遣するにあたり、旧加賀藩士の反撃への恐れからと言われていますが、旧勢力の力を削ぐには有効な手段であったものと思われます。藩政期から金沢では、武士に依存していた町人にとって大きな打撃であったものと思われます。
(今の片町香林坊周辺の銅版の地図・香林坊アトリオ前)
しかし、翌6年2月、七尾県が廃止になり、再び金沢に石川県庁が金沢に戻ってきます。再び金沢も活気づき、香林坊では、道路の改修や香林坊橋は藩政期お留石の戸室石で欄干が造られ、石浦町では、橋健堂氏(三島由紀夫の曾祖父)による進歩的な算術等を教える女子塾を開かれています。
(今の東急ホテルと東急スクエア)
明治8年(1875)には金沢城は兵舎に改造され、歩兵七連隊が編成され、人口も増加し軍服姿の兵隊さんが香林坊・片町を闊歩するようになります。しかし、藩政期の人口に達したのは、大正の初めだと言われています。
(今の香林坊交差点の東急スクエア)
今日のお話は、主が消えて居なくなり、残った土地が一世を風靡したお話です。今の東急スクエア・東急ホテルのところに香林坊大神宮と芝居小屋等がありました。そこは今の東急が有る敷地の凡そ7割が幕末800石を食んだ中村主膳正度(養父庫太)の屋敷で、廃藩と同時にこの地所を売りどこかに去り、跡地は広大な胡瓜畑になっていたそうです。
(香林坊高の中村家・安政の絵図)
明治20年(1887)頃、石浦町や片町の顔役達が、今風に云うと「街の活性化」を推進しようと、当時の芝居小屋主の太田七兵衛(通称梅若)に相談し、畑の中に藁屋根づくりの小さな芝居小屋(こや)を造って地元の役者で芝居を興行します。
芝居は「稲妻草紙」というもので、地元の名優嵐冠十郎他で開演したところ場所もよく人気も上々で大入り盛況だったらしく、その後、いろいろな興行がすべて大当たりし、夏の夜は影燈籠をあちこちに吊り、水花火を上げたりして、夕涼みの客を誘うなど人気を集めたといいます。
(昭和の大神宮前)
明治22年(1889)藁屋根の芝居小屋(こや)のところに、安達弘通等で大神宮を奉戴することになり、小屋を壊し、明治23年(1890)6月に大神宮が造営されます。併せて大神宮広場の振興計画が持ち上がり、安達弘通と石浦町、片町の有力顔役らで太田七兵衛(通称梅若)に献策し本格的な芝居小屋福助座(後の松竹座)が建設され、そこが香林坊の盛り場としての礎となります。
(安達弘通は、茶道宗和流十一代。司少庵宗香と号し、時雨亭の名もある。越中国礪波郡山見郷金屋岩黒村の出生で、壮年に金沢に出て神宮教金沢支部を設置し、自ら神事に仕えて香林坊に社殿を造営した。茶道は九里歩一蓬に師事して宗家を継ぎ、長町河岸に於いて専ら茶事に親しみ、幾多の門下を教え、益々隆盛を極めた。明治維新以後、茶道も廃退の時期であったが、宗香翁の尽力により流儀の再起を得た。昭和3年(1928)9月22日歿、享年75歳。野田山墓地に眠る。)
(昭和の香林坊界隈)
P.S
私が小学校の頃、香林坊大神宮前は、松竹座(福助座)、スカラ座(立花座の前身小福助座)・金沢大映(スメル館の前身ひふみ館)や横山食堂、立花食堂、おでん屋、ラーメン、飲屋などの飲食店があり、雀荘も2軒、美容院も軒を連ね、そうそう写真館もあり、休日には大神宮の鳥居隅の“龍の口”辺りで、袴を着て抜刀した香具師の「蝦蟇の油売り」の口上が聞こえると長い間、買いもしないに立ち止りサクラ(ニセ客)が出るまで聞き入っていました。
当時、近所の友達の知り合いを頼って、4・5人で”馬に乗ってバン・バン“と言いなが小立野から往復歩いて、スメル館の「西部劇」を見にいったことが思い出されます。
(つづく)
参考文献:「よみがえる昭和の香林坊・片町」平成24年11月、北國新聞社 発行・「金沢メイン・ストリート片町・香林坊」昭和42年8月 片町商店会振興組合 香林坊商店街振興組合 発行 片町・香林坊近代化完成記念出版委員会 編集