【香林坊1丁目】
明治になると香林坊の柿木畠に入る角家、今の松屋時計店のところに、中村與三郎さんが昔風の低い二階家の土地と家屋を買取り「中村菓子店」が開店します。主の中村與三郎さんは、幕末に弓取村諸江に百姓の三男坊として生まれ、後に金沢の野町で米穀商を営みコツコツと小銭を蓄え、明治19年(1886)の事でした。
(正面松屋時計店・中村菓子店跡)
ここは、かって何代も続いた薬屋の香林坊家の割屋で、店正面の小屋根の上に白い柔和な地蔵尊が安置されていたといいます。当主の中村與三郎さんは商売上手で、たまたま入手した軒下にあった伝承の火除け地蔵尊にヒントを得て中村菓子店の「地蔵餅」を考案し売り出します。
(文化8年の香林坊の絵図)
(写真は昭和42年の松屋時計店)
「地蔵餅」は大福餅に似た白餡で、長さ6cm幅4cm楕円で、楕円の先を窪ませ黒い胡麻を1粒乗せて有る独特な形をした餅で、瞬く間に評判になり職人も増やし大繁盛したといいます。與三郎さんは、元お米屋さんで、経験上からか原材料のもち米や小豆等の見立てもよくアイデアマンで商売上手だったようです。
(加賀の兵法学者有沢武貞の香林坊の絵図を表紙にした香林坊物語)
初代は明治41年(1908)にお亡くなりになり、後は2代目栄吉郎さんで亡くなる昭和20年(1945)まで継がれ、その間、2代目栄吉郎さんの弟犀一郎さんが、新竪町2丁目に支店を出しています。犀一郎さんは、若い頃、東京新宿の「中村屋」に奉公し、帰ってからは兄を手伝い黒餡の胡麻なし麦まんじゅう「地蔵饅頭」を発売しますが、昭和12・13年頃までは繁盛しますが、戦時の配給統制で原材料が入手困難になり、終戦を境に閉店します。
(現在アトリオ前の香林坊地蔵尊)
その後、地蔵尊は昭和20年(1945)香林坊から新竪町2丁目(現幸町)に移され、さらに昭和33年(1958)に中村外雄さん宅に安置され、平成19年(2007)に昔有って場所を見下ろす香林坊アトリオ前に帰ってきました。
(香林坊の「火除け地蔵尊」は木製ですが、昔は白く塗られていて、まるで石のように見えたと伝えられています。)
(香林坊地蔵尊)
片町・香林坊60年・・・
俳人で俳画家だった古寺町生まれの小松砂丘翁が、ご存命の頃、片町・香林坊近代化記念誌‘67金沢メイン・ストリートに明治・大正・昭和の香林坊の思いで話を寄稿され、地蔵餅が一行出てきますので引用します。
(現在香林坊下にある小松砂丘の句碑)
「・・・・片町へ下ると金澤写真館、向かいに石川屋菓子輔、梅月庵食堂、日露戦争後の金沢新文化の先頭を切ったものである。洋食というものの草分けと言える。石川屋創始は東京花園饅頭の石川弥一老のであり、橋づめは中村屋地蔵餅で二階に地蔵尊が安置してあり。向かいの屋根には鬼瓦が飾ってあった。三河屋という旅館があり、その向かいが永山と云う紙屋だった。扇の芝(香林坊下)の空地は、いつも牛がつながれ、中田天狗の先々代が、牛の値をしていた。ふところに手を入れは極めていた。新木という床屋があった。几帳面な親爺で、日銀総裁がその舎弟である。・・・・」
(大正の中村菓子店の引き札より)
(鬼瓦は、向かいの木造の中二階の「有田ドラック」に屋根にあり、ひらべったい格好の鬼瓦は前を通る人々は向いの地蔵尊とあまりにも不釣合いな光景にぎょっとし気味悪がったと伝えられています。どうも、有田ドラックは花柳病の薬屋で、ウインドーには淋病や梅毒の標本が展示されていて、若い娘さんは目のやり場がなく上を見ると鬼!!そしてまたまた目を反らすとお地蔵さんが・・・地獄に仏!?反面救われた気がしたかも・・・。)
参考文献:本光他雅雄著「香林坊物語」平成6年10月、発行者村浜肇 発行所株式会社北國新聞社・「金沢メイン・ストリート片町・香林坊」昭和42年8月発行、発行者片町・香林坊近代化完成記念出版委員会・片町商店街振興組合、香林坊商店街振興組合。