【香林坊1・2丁目】
今回は、森田柿園が書かれた「金澤古蹟志」の向田香林坊伝を原文のまま引用します。柿園は一つのテーマでも、いろいろな文書から集めまとめているので、横着な私でも、本を揃えて調べることがないので、有り難いのですが、一つのテーマに諸説が書かれ、しかも、そのようなテーマに限って文末に“過聞ならん”“追考すべし”“実否不レ詳”とあり惑わされています。マア~、贅沢な悩みですが・・・。
(今の香林坊下)
≪向田香林坊伝≫
元禄十三年(1700)の由緒書きに云ふ。先祖向田兵衛石川県倉谷に数年浪人にて罷在、高徳公御入城以前当地地へ罷出、町人と成由伝承す。高祖父向田香林坊は、実は叡山の出家に有りし処、還俗致し、向田兵衛入婿に罷成、目薬の秘方家伝所持致し来る処、高徳公(前田利家公)の御聴に建し、調合致し可二指上一旨御沙汰有之付、則指上申処、御書共頂戴仕、其の後御扶持米をも可レ被ニ下旨被仰出一処、老人故御断申上候由。浮田宰相様御眼病之節、御薬可二旨指上一旨御意に付、則指上処、御平愈被レ為在、御懇之御書頂戴被二仰付一右之御書共寛永十三年(1636)金澤火事之時焼失仕由申伝。香林坊儀は元和二年(1616)病死仕。とあり。
(今の香林坊交差点・右の建物辺りに香林坊家跡)
又祖父香林坊喜兵衛は宰相公御家督之時、金澤町中為二惣代一江戸御祝儀罷越、御能見物被ニ仰付ー御料理被レ下、御巻物拝領仕。其後金澤町年寄役被為二仰付一、病気罷成、延宝四年(1676)御断申上御赦免、同六年病死仕。父香林坊喜兵衛、延宝七年(1679)より銀座役(銀仲か?)被二仰付一、 毎年銀子三貫目(今の約500万円か?)宛頂戴、弐拾三ヶ年相勤、元禄十三年(1700)七月病死仕。とありて、元祖以来苗字は向田なれど、三代目より以後は香林坊を称号となしたり。
(手前香林坊橋欄干、向かい白いコンクリート枠までが橋)
按ずるに、源平盛衰記巻廿八に越中国住人向田二郎材高といふ人見江たり。砺波山合戦の條には、越中国住人宮崎太郎・向田荒次郎兄弟二人。ともあり。右向田は今砺波郡五位庄内に上向田村・下向田村とて二邑あり。此の地に土着せし人なるべし。故に向田を称号とはなしたるもの也。されば香林坊の元祖向田兵衛も、若しは越中の出生にて、向田次郎材高が裔孫ならんか。
(今の香林坊交差点)
又香林坊は、弘治元年(1555)朝倉宗滴加賀国の一揆征伐として討入の時、朝倉氏将士の中に佐々布光林坊といふ人、朝倉始末記・加越国諍記等に載せたり、若しは向田香林坊と因みある人ならんか。越前誌にも、佐々布光林坊が居蹟等の事を載せたれど、光林坊と香林坊とは別競怠るも知るべからず。但し楠肇が小橋天神記には、高野山の宿坊(一説に石動山ともいえり)光林坊といへる僧坊ありて、犀川小橋のほとりに居住し、普く府下に金銀を貸し弘め、大に繁昌たせしかば、小橋をば世俗呼んで光林坊の橋と名目す。
後国君光高公の諱を避けて、光の字を改めて香林坊と文字を換へたりとかや。今も猶此の橋の南側に香林坊某とて、故ある町家あり。是光林坊の裔末と云ふ。と記載す。
(藩政後期から昭和まで、この辺りに小橋天神社がありました)
右の伝説に拠れば、元は光林坊と書きたれば、越前朝倉の家人佐々布光林坊とある人の子ならんか。小橋天神社の伝説に、光林坊と小橋天神の別当福蔵院の元祖道安坊と同宿の真言僧にて、そのかみ小橋のあたりに宿坊ありて爰に居住し、小橋天紳を勧請し、両人共に社僧と成り奉仕せしかど、光林坊は後向田兵衛の嗣子と成り、向田香林坊と称し、彼の家を継ぎ町人と成り、道安坊は後々まで小橋天神の別当と成り。後には修験派に転じ、山伏の一派と成りて宝来寺福蔵院と号し、妻帯と成り子孫相続し、于レ今香林坊の子孫と共に連綿す。といへり。按ずるに、右小橋天神の伝説の如くならば、叡山の出家といひ伝うるは過聞ならん。(原文)
(宝来寺 (旧小橋菅原神社):藩政期、修験派山伏の宝来寺が別当の天満宮でした。元禄3年(1691)の略縁起によれば、菅原道真公の弟が河北郡吉倉村(津幡町吉倉笠谷地区)に創建したと伝えられる山伏を社僧とする神仏混淆の社で、後、社僧道安により犀川小橋際に移転します。慶長19 年(1614)大阪夏の陣がおこり、藩主前田利常公出陣に際し利常の乳人が無事凱旋を祈願したといいます。昔、現在の「片町きらら」の裏通り側にあり、元の大和の増築に際、片町2丁目に移築しますが、現在はありません。)
(信号の小路に借家がありました)
≪香林坊旧邸≫
此の旧邸は、香林坊橋下なる片町東側入口の角家にて、横小路は皆貸家とせしかど、後居邸も割家となし、別家と両家居住する処、更に零落して、本末共々家屋を買却して退去せりと云ふ。(原文)
(香林坊家の横小路・柿木畠の今)
(片町から香林坊)
香林坊家は、藩政期を通して、その時々の権力に依存し、格式や家柄にこだわり、幕末まで辛うじて体面を保つものの、明治維新を迎える頃には没落します。聞いた話では、ご子孫は京都に、お墓は野田墓地にあるそうですが、何といっても「香林坊」という一度聞いたら忘れない特異な名称は、昭和の流行歌にも唄われ、ヒットを飛ばし、今や、金沢と言えば兼六園の次ぐらいに香林坊と言われる程、全国に知れ渡っています。
(つづく)
参考文献:「金澤古蹟志巻16」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行他