「金澤古蹟志」は、幕末から明治にかけて活躍した郷土史家森田柿園(平次)が、編纂した金沢の場所の由来や逸話などがまとめられた文献で、今も歴史好きにとっては宝物のような書物です。「金澤古蹟志」の特長はと聞かれれば、私が即座に言えるのは、金沢に残る膨大な文献に書かれている事柄を柿園が永年に亘り調べ尽くし、まとめられているもので、金沢の歴史を調べようと思ったら数多くの本を集め読まなくても、「金澤古蹟志」があれば、あちこち参照しなくていいということです。
(今、香林坊橋の袂にある由来)
森田柿園(平次)は森田家十代目で、明治の戸籍法に伴い森田平次という名前となりますが、藩政期は平之祐、良見、そして号は「柿園」と称します。“柿園の号”は森田家八代の作左衛門(修陳)の時になって家を柿園舎(しえんしゃ)と名づけたところに由来します。この「柿園」は住まいが有った“柿木畠”が由来です。
(今の香林坊交差点・突き当たり広坂)
安政4年(1857)に主家茨木家(2050石)より父の遺知40石を与えられた陪臣の下級武士でしたが、歴史に関心を持ち、藩や藩領の歴史に関する史料も収集し、明治に入っては藩関係の歴史についての書物を多数著し、白山の石川県への帰属に貢献するなど、石川県郷土史の基礎を築いた歴史家として評価された人です。明治41年(1908) 12月1日に86歳で他界。
参考ブログ
金沢の百科事典「金澤古蹟志」を読む
https://beauty-hokuriku.com/p/kosekishi
(藩政期の香林坊橋・稿本金澤市史より・巌如春画)
≪香林坊橋≫
金澤橋梁記にも香林坊橋と載せたり。楠肇が記せる小橋天神記に、今の香林坊橋をば小橋といひ、一名を道安橋とも号す。昔は犀川二派に流れて、大流に渡せるを大橋といひ、小流に懸けしを小橋と号す。然るを寛永八年(1631)の夏、府下火災以後城下の町街を改め給ふ時、犀川を南北の岸へ一流に流し、小流は即ち惣構の堀つづきに用ひ給へり。又、一名道安橋と称するは、小橋天神の社僧道安は橋側に住みける故なり。又香林坊橋と称すは、その上に高野山の宿坊に光林坊といえるありて、この小橋の辺りに居住す。故に世俗呼んで光林坊の橋と呼べり。今もその南側に香林坊某とて、その末裔の商家があり、国君(4代前田光高公)の諱(いみな)を避けて、今は香林坊と字を変えたという。平次按ずるに、拾纂名言記に、昔は犀川二瀬に流れ、一瀬は香林坊際の小橋の下を流れ、その川の流れ深く船など入りたり、と見えたり、この橋は今は倉月用水川の橋と成り、従前は六間(10,8m)なりしを、廃藩の後橋際を築き出し、橋を縮め四間(7,2m)となし、土橋となりたり。(原文)
(大正の香林坊交差点)
≪香林坊木戸跡≫
旧藩中は香林坊木戸とて、橋下往来に柵門を建て、かたわらに夜番人の詰所が建て置き、夜中往来人の縮方をなしたり。この柵門はこの地のみならず、市中すべて本町にあり、地子地との地堺ごとに木戸と呼びて柵門あり、夜中はこの門に居る夜番人が扉を閉める定めなり、金澤の「町方二日讃定書」に載せられていて、萬治三年(1660)七月十日町奉行里見七左衛門等よりの覚書に、町々木戸日暮候はば大門をさし、夜更候てくゞりをもさし、番人は油断が無いように申付られた。といふヶ條を挙げたり。ただしこの柵門の創立も、何れの時よりならん。いまだ諸記録中に所見なし、この柵門共も香林坊橋・枯木橋の両惣門と同時に各木戸も取除に相成れ、今はその遺跡もなし。(原文、一部訳文あり)
(今の香林坊橋)
≪香林坊橋番人≫
此の橋は、旧藩中は本通りの往来橋なりといへども、惣構堀の橋梁なるが故に橋爪に橋番人居住す。今橋下たる左右の町家二戸、是従前橋番人の家なり。町会所留記に載せたる元禄三年(1690)拾子届書の連署に、香林坊橋惣構番人治兵衛・長左衛門。とて両人連判せり。(原文)
(つづく)
参考文献:「金澤古蹟志巻16」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行他