【香林坊1~2丁目】
金沢では、40数年前の昭和37年(1962)8月に「住居表示に関する法律」に基づき、国より住居表示整備実験都市の指定を受け、住居表示の現代化のモデル都市を目指し、市民がアレヨアレヨという間に、歴史的な町名の整理統合が急がれ、あっという間の国の思う壺に嵌ってしまいます。その中で消えていった旧町名もあれば、幾つかの新たに生まれて町名もありました。今回は、当時、新たに生まれた町名「香林坊」により“消えていった町”にスポットをあてます。
(現在の香林坊交差点・今も左側は片町)
(当時、東京オリンピックが決まり、国際化が叫ばれ、特に欧米の風習を取り入れて欧米に追いつこうという意識が強まり、国の指導者や中央官庁では、昔ながらの細かく分けられた町は、非合理的な旧弊で、それを解消することが、郵便配達の合理化にも繋がるということで、町を大きな区画に割るための住居表示変更が実施されます。結果的には、新もん好きの金沢に矛先が向けられ実験材料にされ、その時、小さな町が合併や統合で今まで無かった新しい町名が幾つか生まれました。もちろん,町名を変えることに対して反対する声もあがりましたが、市は町名を変えることや統合については町会が納得しなかったという理由から、旧町名がそのまま残されたところもありました。また、全国的に町名変更が行われる中で、町名に愛着のある人たちは簡単に納得しないことから、次第に反対の声が大きくなり町名変更作業が滞るようになっていきます。オリンピックを前に慌ててやる事に、ろくな事は無いのかも・・・。)
(右の松並木のところが旧仙石町)
≪旧仙石町≫
今、いしかわ四高記念公園とアトリオ(含む大和香林坊店)の間の通りで、延宝期は両側町で、後の片側町になる武家地でした。金澤古蹟志では、「或は千石町とも書けり。此の町名の由来、未だ詳かならず。三壷記に、寛永八年(1630)四月金沢火災の時千石町堂形と見えたり。されば往昔は堂形前と称せる地へかけて千石町とも呼びたりけん。同記に慶長七年(1603)天守へ雷落ち本丸炎上の時、南堤の脇に三十三間の的場及び桜馬場ありて、その外は侍町・堂形へ継ぎてとあり。侍町は即ち千石町の事ならんか。越中富山にも千石町といふありといへり。」とあります。
(延宝の金澤図・赤い文字本阿弥光甫の屋敷が・・・。石川県立図書館蔵)
本阿弥光甫旧邸
延宝の金澤図に、仙石町の中程の東側に本阿弥光甫と記載されています。光甫は本阿弥光悦に繫がるもので利常公は300石と与え小松に在城していた頃より、刀剣の手入方を命ぜられ、利常公の薨去後も綱紀公も命ぜられ、京都より金澤滞留中の止宿として邸地をたまわり、ここに滞在したという。
(本阿弥光悦の死後、家督を継いだ光瑳は前田家から二百石、その子光甫の代に三百石を与えられ、子孫は幕末に至る。)
≪旧松原町≫
この町名は、佐久間盛政が尾山城の頃に立てた尾山八町の一つです。加府事蹟実録によると、昔、金澤城が尾山御坊の頃、今の石川県文教会館のところにあった御門前町不開門の前通りを松原町といいました。その頃はこの辺町端にて穢多など居住し、松原だったという。不開門の本名を松原口門と呼はれたとあります。金澤深秘録には、松原町は昔町端にて、穢多の居住所で、枯木橋に移らせ、その跡へ御門前町としたとありますが、この金澤深秘録の説は信用ならぬとあり。この地は寛永20年(1643)に東照宮を建立され、松原町を残らず門前地となり、これによって俗に御門前町と呼ばれ、松原町の古名は絶えなしが、明治廃藩置県の後、戸籍編成に付き町名取調の際、御門前町の名を廃し松原町の古名に戻しました。
≪旧石浦町≫
この町は、金澤本町27町の一町にて、十二冊定書に載せたる金澤通町筋町割附に、2町30間石浦町とあり。この町名は、元和元年(1615)9月利常公の印書にも石浦町と載っているそうです。
(現在に旧石浦町)
石浦町来歴
石浦町は、昔石浦村の村跡で、石浦村は、石浦庄七ヶ村の一村。村落20ヶ所に分れ、上石浦は今百姓町(現幸町)ので、下石浦は石浦町(現香林坊)の地に集落があり。また、石浦山王社は、今長町の金澤足軽資料館辺りにあり、明治2年(1869)石浦慈光院(現石浦神社)の上申書にも、石浦村は、上下に別れ、当時の石浦町は下石浦村、百姓町の上石浦村は上下一在所で、今の安房殿町(現本多町)より長町へかけて、法船寺馬場(現中央通り町)まで、昔の石浦村の地がこの村地で、藩政期は武士工商の屋敷となり、堤町・南町・金屋町以下八町は、佐久間盛政が金澤在城の頃建てたる町屋にて、これも尾山八町と呼び金澤府下の本町とし、石浦町は利長公の時定められたる半役町七ヶ所の一町で、むかしは本町にあらず、以後石浦町は、南町・堤町と継ぐ本通りの本町で、利長公の時、半役町七ヶ所の中へ加へられしものは、そのさき南町・堤町などの本町共は、金谷出丸の地にありて、城際の通り町なり。それで佐久間氏の時代より、尾山八町の中にて本役の町とす。南町・堤町の金谷の地にありし頃は、往来筋今と異りしゆえ、石浦町の地と継がず。石浦町は石浦の村地にて、そのかみは南町・堤町の裏地となり、金谷出丸が出来る頃、南町・堤町が今のように町地を移動したため、石浦町と町継きになり、今のような通筋となり、本町27町の中へ入った。と書かれています。(森田柿園著「金澤古蹟志より」
(昭和の香林坊橋が見える)
≪旧石浦町藪の内≫
石浦町の裏町で、旧藩中は藩士の邸宅地で、ここは高岡町薮の内へ続きで、昔は惣構の土居つゞきのため、土居の竹林繁茂していたので薮の内と云う、三壷記に、寛永八年(1631)四月十四日の火災の時、惣構の薮の内大家とも延焼し、慶長十六年(1611)九月三日利常公在判定書に、「惣構の竹、その屋敷通りの者共として相改べき候。若し猥(みだり)に伐取候者、屋敷主可致越度旨可申聞。」と載せられていています。という事は、慶長十五年(1610)この惣構堀が出来たころより、竹の植付を命じらていたようです。
(南町から堤町辺り)
≪南町≫
この町は尾山八町の一町にで、佐久間盛政在城の頃からある町名で、その時代には、城の南方金谷出丸の地にあり。それゆえに南町と称すと三州志等に云へり。加府事迹実録にも、昔、南町は城際の南にあり。金屋町は金谷門の内にあり。城際に町屋を建置べからずとし、ことごとく追い退けられ、おのおの今の所へ退去そた。とあり。慶長の金澤城図を見るに、玉泉院丸の下、金谷出丸内惣構掘の内に三條の町ありて、共の中央の一條を南町と記載す。三壷記に、寛永十二年(1635)五月九日河原町の後より出火し、南町・石浦町・堤町等ことごとく焼失す。この時町中をば惣構の外へ屋敷替へ命ぜられ、町割調ふ。とあり。平野屋半助由緒帳に、寛永十三年(1636)町割之刻、御城へ召され町割之御絵図を以て、只今之居屋敷を願い出た処、同年、拝領を仰付たとあり。されば南町を今の地へ送り出したるは、寛永十三年(1636)の事にて、火災の翌年なる事知られけり。十二世定書に載せたる金澤通町筋町割附に、3町2拾間南町とあり。是は今の地へ移転せし後の町割間敷附也。
(藩政初期の南町・玉川図書館蔵)
(南町復活:平成20年(2008)11月1日に40数年間、香林坊に吸収されていた南町が旧町名に復活しました。)
参考ブログ
古地図めぐり―金沢・高岡町界わい
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11855406025.html
(つづく)
参考文献::「金澤古蹟志巻23」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行他