【香林坊】
永年、俗称で呼ばれていた「香林坊」は、昭和40年・41年の町名変更で正式な町名になります。昭和40年(1965)9月1日には石浦町、南町、高岡町、高岡町上藪ノ内の各一部が香林坊2丁目として、翌年昭和41年(1966)2月1日には石浦町、南町、上松原町、仙石町の各一部を香林坊1丁目とし、始めて香林坊が正式に町名となります。
(香林坊の石碑・今、この場所片町)
(南町復活:バス停の名前として残っていた南町が、平成20年(2008)11月1日に40数年間、香林坊に吸収されていた南町が旧町名に復活しました。)
(ブルーの線の内側が香林坊)
香林坊と云う名は藩政初期に家柄町人香林坊家が居住したことから名付けられた俗称で、「香林坊家記」によれば香林坊家は越前朝倉家の家臣で向田と名乗っていたが、兵衛の代に朝倉家が没落し、その後、石川郡倉谷村に住み、天正8年(1580)この地片町に移り、合薬商を営みます。兵衛には跡取りの男子がいなくて娘1人と暮らしていたが、年老いても婿が決まらず、結局親類筋にあたる比叡山の僧香林坊を婿とします。
(香林坊交差点の香林坊地蔵・昔は左信号前にあった香林坊家の小屋根の上)
婿香林坊は、もと佐々市という朝倉家の武士で、朝倉家没落後は比叡山の入り剃髪し香林坊と称していたが、しばしば比叡山の御用で北陸路を往来し兵衛宅に止宿しているうちに兵衛に目を付けられ還俗婿入りしたそうです。
ある夜、兵衛の夢枕に立った地蔵尊のお告げにより処方した“目薬”を調合します。その頃、前田利家公が目を患ったことを聞き、香林坊家が“目薬”を献上したところ、治癒したことから藩の御用商人になったと伝えられています。この夢で見た地蔵尊を造り店の小屋根に安置すると商売が益々繁盛したといいます。
(地蔵尊の前にある由緒書)
寛永の大火(1631)の時、地蔵辺りで不思議と火が止まったため、香林坊の火除け地蔵と呼ばれるようになりました。トサ・・・。その頃より家名を「香林坊」と改め、以来目薬の製造販売で大成功して「香林坊家」として繁栄したという。
(香林坊地蔵尊)
寛文9年(1669)には十人年寄に任命され、宝永元年(1704)から町年寄(当時3人制)になり、以来自他共に家柄町人に任じられ、文政元年(1818)には家柄町人として公的に格付けられます。
香林坊家の居宅は、片町と石浦町の境、香林坊橋(犀川小橋)の橋爪(柿木畠入口)にあったと云われています。このことから片町から石浦町の至る坂を香林坊坂と呼び、橋を香林坊橋(道安橋とも)と呼び、その界隈を俗称で「香林坊」というようになったそうです。
(目薬の木)
(香林坊下の鞍月用水を開渠して再開発された映画街の広場には、目薬の「香林坊家」の由来にちなんで、メグスリノキが植生されています。)
≪加能郷土辞彙の香林坊氏≫
先祖向田兵衛は石川郡倉谷に浪人していたが、前田利家金澤入城の頃町人となった。そこへ叡山の僧であった香林坊といふ者が還俗して入婿した。香林坊は目薬の秘法を知ってゐたので、之を調合して利家公に差上げた為、扶持を賜はらうとしたが辞退し、元和2年病歿した。この時から香林坊が家名となり、次代香林坊喜兵衛は町年寄を勤め、延宝4年之を辞して六年没した。三代香林坊喜兵衛は延宝7年から銀座役を命ぜられ、毎年銀三貫目を賜はり、22ヶ年勤続して元禄13年病死し、其の子喜平次が後を受けた。しかし、香林坊の名称の起源に就いては別に異説がある。
(向かいのビル辺りが香林坊家跡)
≪加能郷土辞彙の香林坊橋≫
金澤片町と石浦町との間にある。楠肇の小橋天神記にいふ。今の香林坊橋を小橋一名道安橋と号した。昔は犀川二派に流れて、本流に架したのを大橋といひ、支流に懸けたものを小橋というてゐたが、寛永八年の火災以後市区を改めた時、河流を一筋に疏通した。その小橋を一に道安橋と称するは、小橋天神の社僧道安が橋側に住んでゐた故である。又香林坊橋と称するは、高野山の宿坊光林坊が此の附近に在つた為であるが、後藩侯の諱を避けて香林坊に改めたのであると。この説は別項香林坊氏の所伝と一致しない。
(香林坊橋の橋柱と由緒看板)
(つづく)
参考文献:「金沢メイン・ストリート片町・香林坊」片町・香林坊近代化完成記念出版委員会、昭和42年8月発行・「加能郷土辞彙」日置謙編