【金沢・広坂】
藩政期以前は、廣坂の上、現在の県立美術館のところに神明宮や愛宕寺明王院が有り、今も、崖際には古木が聳え神仏が似合いそうな雰囲気を醸し出しています。また、向かい側に昼でも寒気を感じる芋掘藤吾郎伝説の金城霊澤があり、その辺りは、東山にある金澤山永久寺の創建の地だったそうです。若い頃でも、この辺りは寂しいところで夜一人で歩のが怖くて、夜など香林坊からはバスかタクシーで帰宅していました。
(廣坂上)
(廣坂上の石川県立美術館)
(金沢神社の鳥居と金城霊澤)
この地は、藩政期、太田長知の邸を経て本多安房守の屋敷に、その隣接地は、今も金澤神社の境内の金城霊澤があり、金澤の地名の由来の「金洗澤」の地で、この辺りを大昔、金澤庄と呼ばれ、近くにあった愛宕寺明王院は山号を金澤山と称したと言われています。
(金澤庄は、日置謙の加能郷土辞彙によると「加賀の古庄名に金澤庄があって、金谷門(今の合同庁舎あたり)から蓮池亭(今の噴水辺り)・学校辺り(今の千歳台・梅林)をしか称したと云われたるとある。しかし文書の上に金澤庄と書いたものは発見しえぬ。」とあるので、金澤庄は、現在の広坂通りから広坂、兼六園金城霊澤辺りと推定されます。)
(延宝の金沢図・石川県立図書館蔵)
廣坂は、金沢古蹟志によると、“・・・今、坂下を廣坂通といへり。此の坂路幅広なりし故に、廣坂と称す。俗に或は安房殿坂と呼べり。従前此の坂の上に、本多安房守の居邸あり・・・”とあり、国事昌披問答に、世俗安房殿坂と云ふは本名何と申候哉。答云う。元作事坂と唱へ候と見江・・・、
(川口門跡・この当りから尻谷坂往来に繫がっていたらしい・・・)
変異記に、元禄三年三月十七日新竪町後御徒町より出火、安房守第地の西横、元作事坂へ焼け出とあり。そのかみ此の坂脇なる蓮池と呼べる地に作事所ありたりし故に、坂名に呼びたりしといへり。廣坂の名は、輓近(ばんきん・近頃)よりの事にや。
元禄・享保の頃は、元作事坂或は安房殿坂とのみ見江たり。文政以前は、此の坂路より兼六園の地内を通行して、尻谷坂へ出る往来ありしかど、文政三年竹澤御殿建築に付き、同年八月十八日より通行を止められ、此の道路を廃して兼六園内へ取り込みに相成り、夫れより百間堀縁往来に雑人の通行を許されたり。
(現在の堂形前)
≪廣坂下の堂形≫
堂形は、石川郡の備蓄米の倉庫で、藩政期は、俗に呼び名として堂形あるいは本堂形と呼びました。廣坂下より仙石町へ出る間の惣名で、元禄六年の士帳に、古堂形前あるいは古堂形近所・古堂形裏門近所などと記載され、享保九年の士帳にも、古堂形前とあり、元禄・享保の頃までは古堂形と呼びました。古はこの地に弓道の的場として三十三間堂の形で建てられ、それ以来本堂形と呼ばれたのは、後に兼六坂(尻垂坂)下に河北郡の備蓄米倉庫を新堂形に対する称でした。
改作所旧記に載せたる享保三年正月の書付に、古堂形・新堂形と見え、金澤町会所留記宝永二年五月の書付に、本堂形前とあり。この後々には堂形あるいは堂形前と称し、この地辺の町名となり、維新の廃藩置縣の戸籍編成の際、堂形前の称号を廃し、廣坂通と改称します。廣坂の下辺りということから、廣坂通となりました。
(堂形跡のしにのき迎賓館≪旧石川県庁≫)
P.S
廣坂は、小立野在住の者には、片町や金沢駅に行くには、廣坂、兼六坂(尻垂坂)、兼六園を横断するというのがあり、私は、徒歩では当時無料の兼六園から片町へは真弓坂、武蔵・橋場は桂坂、自転車では何処へ行くのも廣坂、遠くへ行く時は市電で兼六坂(尻垂坂)が定番で、自分でお金を稼ぐようになると、深夜、廣坂経由でよくタクシーを利用したものです。
(今の廣坂下)
自転車での帰りは、兼六坂より、広坂で、少し角度(石浦神社前で4度)はあるものの昼は、ほぼ兼六坂の半分(214m)の廣坂で押して上がりました。(今は電動自転車で乗りながら上がります)子どもの頃から押して上がるのが面倒になると、当時、廣坂下にあった広坂警察署の駐輪場に入れ、広坂を歩いて上がるのが定番でした。あるとき警察署の人に「お前か!!駐輪場を使うのは、ワシらが入れんようにナルやないか!!」と怒鳴られ、あまりにも怖くて、とんでもない事にした事に気付き以後は止めましたが、今では、そこに警察署が有りませんが、そこを通ると、時々その情景が思い出されます。
(今の廣坂上)
私は、すでに働いていた昭和36年の秋でした。第2戸室台風が金沢を襲います。後で知るのですが、その日9月16日は、瞬間最大風速30.7m/s、暴風雨の始め17時20分、暴風雨の終わり18時45分、総降水量73.6mm。死者8、傷者80、行方不明5、家全壊143、同流失8、床上浸水1,327、その他被害総額は77億円を上廻ったそうです。
(廣坂の中程の本多家側)
仕事を終え、バスで香林坊まで辿りつき、洋菓子屋のオリエンタル前で、小立野行きの市電を待ちますが、電車が来ないどころか、いつもいる電車待ちの人もいない、街外れから来たので、街中の様子がつかめず、軒下でしばらく待ちますが、おぼろげに状況が分かり、やがて街灯も付かず真っ暗になり、怖い廣坂を目指して歩きだしました。
(廣坂中程)
通行人は誰もいなくなり、時には突風で飛ばされそうになりながら、廣坂に着き登ろうとすると、兼六園や反対側の石浦神社の古木が倒れ坂を100m位塞いでいました。まさにジャングル探検でした。よくは見えない中、何度も倒れた木を潜り、乗り越え怖さなどスッ飛んで、ガムシャラに前に進みます。そして暗く寂しい道を歩き家の辿りつきました・・・。当時は怖かったけど、今となっては楽しい思い出です。
参考文献:森田柿園著「金沢古蹟志」金沢文化協会、昭和9年発行・日置謙編「加能郷土辞彙」・国本昭二著「四季このごも」橋本確文堂、2004年発行