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金沢城公園いもり堀(宮守堀)

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【金沢丸の内】

金沢城の「いもり堀」は、金沢城南西部を囲む外堀で、幅約40m、深さ10m以上、北岸の法面の勾配は約2530度、 南岸の勾配は30度~40度のお堀でしたが、明治40年(1907)に旧陸軍によって埋め立てられ、その後旧陸軍用地として利用され、戦後、県立のテニスコートとして利用されてきました。平成15年(2003)から本格的な文化調査が行われ、平成22年(2010)に水堀が一部復元します。「いもり堀」は、正式には漢字で「宮守堀」と書きますが、復元された後は平仮名で表記されています。

 

 

(復元された「いもり堀」と鯉候櫓台の石垣)

 

この堀は、蓮池堀の南端、車橋門からお花畑・薪丸・玉泉院丸の外に巡らされた水堀で、金谷出丸(今の尾山神社)を巡る惣構の堀と、鼠多門(平成31年(2020)に復元予定)前を通り甚右衛門板門にいたる堀の二つに分かれます。堀は、総構の堀以外では最も長い堀(約500m)でしたが、一部復元する前は、全てが埋め立てられ、テニスコートの他に道路や建物、駐車場になっていました。

 

(今の玉泉院丸庭園)

(2020に復元する明治まで有った鼠多門と橋)

「宮守」と書いて、通常は半分半分の割合で「みやもり」または「やもり」と読むそうですが、金沢では、宮守堀を「いもりぼり」と呼んでいました。水の中に生息する、「いもり」がこの堀にいたそうで、昔の人“やもり”“いもり”の区別が付かなかった?のか、言い間違えたのか?宮守堀と書いていもり堀と呼んだのでしょう。今は平仮名で「いもり堀」と書かれています。また、先に紹介した同じ金沢城を囲む白鳥堀、大手堀、百間堀は、金沢市の外濠公園なのに、この「いもり堀」は、石川県の金沢城公園です。その経緯についてよく分かりません。)

 

 

(いもり堀の全長)

 

復元後は、幅は15m、水深約1.5m、長さは約230と本来のお堀よりもかなり縮小された復元になりました。堀に有った建物や駐車場は取り壊されましたが、幹線道路は残されます。しかし、埋まっていた鯉喉櫓台(りこうやぐらだい)石垣が復元され、平成22年(20104月、103ぶりに堀には、兼六園を通った辰巳用水の水が引き入れられ、藩政期の威容を取り戻しました。

 

(復元されたいもり堀から兼六園と左金沢城の石垣、右しいのき迎賓館)

 

堀と同時に復元された鯉喉櫓台(りこうやぐらだい)の石垣は、いもり堀の南東の端に築かれた石垣で、絵図によると、堀底からの高さは約14.4あり、堀に向かって突き出した主要部分は、幅長辺23.4m、短辺11.8の規模で、鍵の手に折れ曲がりながら東側の車橋門へ続いていたそうです。

 

 (いもり堀と百間堀周辺図)

 (辰己櫓から百間堀と車橋門辺り)

 

明治40年(1907)、いもり堀の埋め立てと同時に上部が撤去され、地上からいったん姿を消しましたが、平成10年(1998)度から実施された発掘により、残存高9.6m分が確認され、発掘された石垣は、寛文4年(1664)の修築時のもので、ツル・ノミ等の工具で形を整えた石材(角閃石安山岩・通称戸室石)が整然と積み上げられており、江戸時代後期の加賀藩の石垣技術者、後藤彦三郎は「城内随一の石垣」と賞賛したといいます。

 

 

 (鯉候櫓の解説)

 

なお、名称の由来については、はっきりしたことはわかっていません。また石垣上の建物としては塀が知られるのみで、櫓は建っていなかったと考えられます。 創建は元和(16151624)ないし寛永(16241644)頃 で、修築 正保元年(1644)、寛文4年(1664)だと伝えられています。

 

P.S

私の小学校時代、「いもり堀」は既にテニスコートでした。昭和22年(1947)、戦災を免れた金沢で第二回国体が開催され、その時、軍隊の被服庫跡に国体用にテニスコートが作られ、それ以後も県民のテニスコートとして利用されていました。石垣の下に10何面かのコートが連なり、石垣の上の散歩道や県庁の裏の道路からも見え、事務棟のバラックには、ローマ字で書かれて看板があり、今風の云うおしゃれな雰囲気で、憧れの場所でした。その頃、我が家に下宿していた医大生がよく通っていたので、何回か連れて行かれ、中学校になると軟式テニス部に入り、わざわざ板打ちの練習に行きました。

 

(辰己櫓から鯉候櫓台といもり堀、ここにテニスコートがありました。)

 

中学2年の時、市の大会に前衛で参加し、後衛の転校生が上手で、トントン調子にゾーンの決勝に進み、翌日の新聞に苗字が出たのが私の新聞デビューでした。とはいえ、憧れでテニスを始めたので、練習嫌い、試合では瞬発力が無く、レシーブ以外は、コートにボーと立っているだけ、何にもしないうちに終わってしまい、今となれば後衛の方に負担を掛けた思いしかありません。

 

 

 (テニスコートの跡、石垣の石の展示場)

 

高校でもテニス部で、このコートで練習や大会にも参加しましたが、何も思い出せません。思い出すのは、小学校の同級の女子高生が、小麦色の肌で颯爽と硬式のアンツーカーのコートで練習をしているのを遠くから眺めるだけで、声も掛けられなかった甘酢パイ思い出と石垣の上の散歩道にしゃがみ数人でタバコを吸って、補導員に追っかけられ、私ともう一人が残り補導員捕まり“名前を聞かれ”逃げた者がいるのにと開き直り名乗らなかった若気の至りだけが思い出されます。

 

 

(現在のいもり堀、石垣前がテニスコート)

 

参考HP

いもり堀|金沢城公園-石川県

http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/common_new/img/txt-gnav05.png

 

参考資料:金沢城研究調査室発行「金沢城いもり堀」ほか


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