【金沢・丸の内】
百間堀は、石川門の前に架かる石川橋の袂の看板には、以下のように書かれています。
(百間堀の石川門と沈床園)
百間堀(ひゃくけんぼり)Hyakukenbori
ここから見える金沢城と兼六園の間は、かつて百間堀のあったところです。金沢御堂(かなざわみどう)陥落(かんらく)後、佐久間盛政(さくまもりまさ)の時代(天正8〜11年、1580〜1583)につくられ、前田利家(公)の入城後、その子利長(公)により改修されたと言われています。小立野台と金沢城とを分断する、防衛上重要な水堀で、長さ約270m、幅約68.4m、水深約2.4mあり、その大きさから百間堀の呼び名がついたようです。明治43〜44年(1910〜1911)の市電(街鉄)道路工事により、現在のような姿となりました。
(百間堀の桜)
(百間堀の新緑)
なお、別名蓮池堀とも呼ばれ、その由来については、もと蓮が群生する沼地であったためとも、金沢御堂(一向一揆)の時代、極楽浄土に見立てた地名の名残とも言われています。 百間堀の石垣にはたくさんの刻印が見つかりますので、ゆっくり歩いてみるのもいいでしょう。
(百間堀の石川橋)
≪蓮池の語源≫
蓮池の名は、一向一揆の時代、金沢城の百間堀辺りは蓮池(はすいけ)と呼ばれた池であったことが起源で、金沢城初期は空堀であったが、辰巳用水が開削されたことによって、水が湛えられるようになったといわれています。それゆえ蓮池とは本来は百間堀を指し、百間堀は蓮池堀とも呼ばれることもあった。
この堀の蓮池(はすいけ)と蓮池庭との関係について、まず富田景周の「蓮池考」のよれば、「蓮池(れんち)は古来よりの名に非ず。御塹の名は蓮池(はすいきけ)有。其辺りにある地なる故後人蓮池(れんち)と音にて唱へ、蓮池と其名を分つよし也」とある。
(百間堀通り・かつては手前に金沢市の消防本部がありました)
これに対して、森田柿園の「金澤古蹟志」では、金沢の地名の起源となった清水、すなわち、芋掘り藤五郎が砂金を洗ったという伝承のある金洗沢がこの近くにあり、元は空堀であった蓮池の地名の方が時代が古いとして、次のように主張する。「いにしえ本源寺(一向一揆時代の寺院―引用者注)の時なる蓮池は、金洗沢の続きにて、彼の清水(金洗沢―引用者注)を取りて蓮池となしたるならば、即ち今云う蓮池(レンチ)の地、是往古の蓮池(レンチ)となるべし。蓮池堀は、此の辺りなる壕塹なるより、池堀とは後で呼びたるならんか。富田氏の蓮池考の説は請けがたし」と富田景周の説を退ける。長山直治の「兼六園を読み解く」によると、上記、富田景周と森田柿園では主張が異なるが、この両人とも誤りとあります。(「兼六園を読み解く」P9・10を引用)
(兼六園側から百間堀の向こうに石川門)
長山直治「兼六園を読み解く」によると、加賀藩5代藩主綱紀公が、延宝6年(1678)頃、今の兼六園の噴水前に「蓮池之上御殿」が造られ、当時の綱紀公の御親翰(藩主の手紙)に「はす池之上之屋敷」と書かれているそうです。その理由は、「蓮池之上御殿」は小立野台の先端にあり、蓮池堀の一段上で、その頃は「蓮池の高」とか「蓮池の上」と名で呼ばれていたそうです。やがて藩士達の間で「はすいけのうえ」の呼かたが言い難いということから、音読みの「れんちのうえ」と呼ぶようになり、それを聞いた綱紀公は、「れんち」と呼ぶのを嫌い、家臣をたしなめたという逸話が残っています。以後6代吉徳公の時代には「はすいけ」には拘らず、「れんち」という呼び方が定着し、しかも「蓮池之上御殿」の「上」の字が省略され、さらに省略され、単に「蓮池(れんち)」に呼ばれたそうです。(一部、長山直治の「兼六園を読み解く」の引用。)
(その後、11代藩主治脩公(はるなが)は、宝暦の大火(1759)により、蓮池御亭などが焼失し荒廃していた蓮池庭を、安永3年(1774)年に復興し、翠滝(みどりだき)と滝見亭(夕顔亭)を作り、この作庭により瓢池から常盤ケ岡(ときわがおか)あたりに当時の形が残っています。)
(今の百間堀通り・かっては市電が通っていた)
明治43 年(1910 )から百間堀をはじめとして、大手堀を残し、堀は次々と埋立てられ、現在では、百間堀は車道と歩道および遊園地(沈床園)、白鳥堀は裁判所裏の遊歩道路(白鳥路)、宮守堀の跡はテニスコートとなっていたが、現在は金沢城公園の一角として再現されています。
現在の百間堀(蓮池堀)は、百間堀の上には並行して走る蓮池門(れんちもん)通り、さらにその上の茶店通りという3つの通りが、金沢を代表するお花見スポットです。特に、百間堀の桜は、石川橋からの眺めや金沢城の丑寅櫓跡や辰巳櫓跡からの眺めが素晴しく、花見時には、今も百間堀の沈床園で朝早くから場所取り合戦が始まり、ブルーシートが敷かれ、昼頃には既に宴会が催されています。
(百間堀の花見宴会)
≪金澤古蹟志の蓮池堀≫
此の掘を今俗に百聞堀と呼べり。蓮池の名は、昔城地に本源寺有りし頃、僅かなる溜池にて、其の比蓮池となりたりし遺構たりと云ひ伝えたり。関屋政春古兵談に云ふ。金澤蓮池の堀は、昔は涸池にて、高石垣の所も切立ての土手也。佐久間玄蕃居住の時、才川の奥日尾、見定という処 玄蕃思の儘に廻り兼ぬる。
或時、玄蕃彼城余りて手浅に候間、堀普請を山中の者共に頼み度しといふ。心得申すとて、究竟の者共三百人許来て堀普請をする。然る処奥村河内屋敷の方と本丸の方より取包之、四方よりさしおろして残らず討殺す。骨ごわの者皆討たれて、それより山内治ると云い伝えへたりと。叉云ふ。尾山城は其初小立野の尾崎を堀り断ち、是に築く。其掘切は、今奥村伊豫屋敷と城との間の蓮池たり。高石垣の所も切立の土手也。蓮池より堂形の方へ押回る角に古への清水あり。金銀の雲母浮ぶ。是を金澤と云ふ。其頃は蓮池は涸掘也と云ふ。
(明治初期の百間堀)
有澤武貞朱書に云ふ。辰巳水道出来してより、水かかるなり。とあり。按ずるに、佐久間玄蕃石川郡日尾・見定の邑民をして蓮池掘を掘らしめたるは、天正八年入城以後にて、十一年四月玄蕃滅亡以前の事なるべし。奥村河内屋敷或は伊豫屋敷とあるは、皆後の名称を以て記載せしもの也。
(元禄以前の奥村伊豫第・今兼六園)
三州志の註にも、伊豫第とあるは、後の第地に非ず。今の学校明の地とは、元禄九年まで有りし第を指すたり。といへり。今の学校の地とは、今金澤紳社の地辺也。又今百間堀と称すれど、三州志来因概覧附録に、蓮池濠の長さ百五十間、幅石川門の方三十間也。夫より東へかけ次第に幅狭くなる。といへり。
(蓮池門の通りより、車道の百間堀通り)
又按ずるに、此の掘の傍なる往来脇の地を古来蓮池と呼べり。往昔蓮池(ハスイケ)の遺構は此の地にて、此の辺りなる塹なるにより蓮池堀と称する歟(や)といふ説あり。但し富田景周の蓮池考には、蓮池の地は古来よりの名に非ず。塹の名に蓮池あり。其辺りにある池なるに故に、後人此の地を蓮池と音にて唱て蓮池堀(ハスイケホリ)と其の名を分つよし也。此の塹は古へ本源寺の頃より空濠也。寛永九年微妙公、辰巳水道を開通せらるゝより水塹となるよし、関屋政春古兵談に記せり。といへり。
参考文献::森田平次著「金沢古蹟志第三編」・長山直治著「兼六園を読み解く」発行 桂書房、2006年12月 「よみがえる金沢城」編集金沢城研究調査室 発行 平成18年3月 石川県教育委員会ほか