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金沢の外濠公園⑤尾坂門と西丁口門

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【金沢、丸の内】

前回、大手堀は慶長 4年(1599金沢城修築に当り高山右近は新丸を築きその外側に大手堀を開削し、一向一揆時代(金沢御堂)や佐久間盛政の時代の正門の西丁口御門(黒門)を改め、尾坂を“大手御門とした”と書きましたが、調べていく内に寛永8年(163122日付の「聞見雑録」堀九兵衛の武功書に、一向一揆軍と柴田勝家軍との合戦で、柴田勝家軍で手柄を上げた者に褒美が与えた事が書かれていて、その中に尾坂門について以下の通り書かれています。

 

 

 (大手門(尾坂門)より大手堀)

 

「~本源寺(金沢御堂)本丸の地にありし比より、尾坂口を大手となし、爰(ここ)に大手の正門を建置たる事知られたり、右合戦は天正8年(15803月柴田勝家・佐久間盛政等織田家の命を奉じ、尾山城(金沢御堂)を取巻て陥(おと)したる時なるべし、然れば佐久間居城となしたる後、正門とせられたりと聞ゆ、旧藩中の諸記録に、利家卿入城後の尾坂口を初めて正門となしたる如く載たるは、誤聞というべし。~とあります。」

 

 

 (大手堀より西丁口門を望む)

 

上記は、大正期に編まれた和田文次郎編の「稿本金澤市史」に記載されています。これによると、尾坂門を大手としたのは天正8年(1580)の佐久間居城時とあります。そこには、利家公が城の大手を、秀吉と対立した越中富山城の佐々成政に備えて西町口から北の河北口に移したと云われていることも含めて、前に書いた記述“慶長 4年(1599)の利長公による”慶長の危幾“の時”との違いについては、私も遺憾ともし難く、森田柿園に習い“追考すベし”であります。

 

(国指定史跡の看板)

(大手門(尾坂門)より旧中町を望む)

 

尾坂については、尾山坂の略ではなく、門前の短い坂の事で実は小坂とも書き、藩政期以前は、寺内町で河北門(新丸)から浅野川を小坂庄といわれ、小坂門とも云ったという。)

 

 (藩政期の金沢城)

 

参考ブログ

金沢城のお膝元・・・今町・中町

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10777285912.htm 

 

(大手門の鏡石)

 

大手門の上段の鏡石のある石垣は寛政11年(1799)の地震で崩れたものを翌年修築したらしく、現在の尾坂門を形成する石垣になっています。この尾坂門から河北門を経由して二ノ丸から本丸に至るのが大手筋になります。下段の石垣は創建時のものと考えられています。尚、大手門の櫓は、現在では図面もなく、どの様な姿であったのかは不明ですが、初期に、向かって左の石垣は、狼煙を上げる“かがり火台”門台の兼用だったそうです。

 

 

 (西丁口門(黒門))

 

≪西丁口門≫

藩政期には、会所、割場等、諸役所の係員は、皆この門を通用せりとあり、金沢御堂の頃は、惣門だったと云われています。“金城深秘禄“には、西丁口は当城の西方なり、故の西丁口門とよばれ、昔、金沢御堂の頃は、御堂の惣門で、陥落後佐久間盛政が城主となり、越中がまだ敵地のため西丁口の正門を改めて?河北口を大手となしたり?とありますが、これも追考すべし・・・

 

 

 (門の内にある黒門(西丁口門)の看板)

 

(西丁口門跡は、現在、黒門跡といわれています。何故、黒門と云われるようになったのかよく分かりません。一説には黒い鉄板を貼った扉だったので名前で呼ばれたといわれていますが、昔の史料には西町口門とか西丁口門しか見当りません。何時だった忘れましたが、金沢大学時代に誰かがそう云ったらしいという話を聞いた事があります。)

 

(安政の絵図より)

 

“三州志来因概覧附禄”には、

「盛政尾山城を信長公より賜て、自ら城縄を改め、東方に塹を掘(空堀か?) 西丁口を正門とし、御山を尾山と改め居城とす、しかれどもその時、単垜列柵(土を山形に高く盛ったものに柵?)と伝えられいて、今の如く金湯(金城湯池)の堅めあるに非ず。」

 

(「金城」は金で築いた堅固な城。「湯池」は熱湯をたぎらせた堀のこと。)

 

(大手門より菱櫓、河北門を望む)

(新丸の諸施設と堀)

 

宝暦9年(17594月の宝暦大火で城の大半を焼失し、寛保2年(1762)から二の丸御殿、安永元年(1772)に河北門、天明8年(1788)に石川門を再建したが、三階櫓や大手門(尾坂門)は以後再建されることはありませんでした。

 

 

(大手門の陰陽石)

 

金沢城は、明治以降は陸軍歩兵第7連隊、陸軍第9師団が置かれ、一部を残して建物は撤去され、第二次世界大戦後は金沢大学が置かれます。金沢大学は平成7年(1995)に郊外角間の移転し、以後は金沢城公園として整備されています。

 

 

(大手門の看板)

 

P.S

この間、大手堀を眺めていると、餌も遣らないのに大きな鮒や鯉がガッツキものほしそうに寄ってきました。今から123年程前に浚渫工事があり、その時の調査では、かなり堀の水が悪化していて、外来種で生態系に悪影響を与えるブラックバスが見つかったと聞いていましたが、今も鮒も鯉も住みついているのを見るつけ、ほっとすると同時に始めてここで鮒釣りをした事が蘇って来ました。

 

 

 (今の大手堀の鯉)

 

何処で知り合ったのか、覚えていませんが、多分同好の志だったのでしょう?同じ小学校の上級生と一緒に笠舞の牛小屋で、臭いをガマンし糞にまみれでミミズを集め、大手堀に鮒釣りに来たことを思い出しました。初めの餌は小麦粉を練ったものでしたが、大手堀に来ている他校の生徒が使っているのを真似たのでしょう。

 

 

 (今いる大手堀の亀)

 

今のように大きな鮒や鯉はいなくて、時代が時代で、魚も食料事情が悪かったのか、しかも、たまり水の魚ですから10cmぐらいの大きさで、頭の大きい鮒が多かったようです。それでもなかなか釣れず、他校生徒のとのいざこざもありましたが、何といっても大敵は、当時の近道だった金大の石川門の守衛さんでした。石川門の二の門で身をかがめて守衛室を見張り、守衛がいないと見るや素早く河北門へ、坂をくだり大手門へ走り抜けました.

 

(今、大手堀の睡蓮)

 

暫くの間でしたが、ここではあまり釣れなかったので、何とか鮒を釣りたいという思いがつのり、後に、2kmもある粟ヶ崎辺りのオミヤ川やナカ川へ、自転車で鮒釣りに行きました。そこでも、お目当ての鮒が釣れず、カワギス、ゴリばかり、たまにライ魚やナマズが引っかかるばかりで、中学になり好奇心も失せたのか足が向ず、魚釣りは卒業していました。

 

(大手門下の周辺の地図)

(今の周辺地図)

 

(つづく)

 

参考文献:森田平次著「金沢古蹟志第三編」・「稿本金澤市史・市街編第四」和田文次郎編 復刻版編者金沢市役所・ 発行 昭和487月・発行所(株)名著出版 ・「よみがえる金沢城」編集金沢城研究調査室 発行 平成183月 石川県教育委員会ほか


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