【金沢・丸の内】
大手堀は、金沢城で唯一埋め立てられなかった堀です。春には桜が、初夏には緑と水辺に恵まれた絶好の散歩コースですが、明治40年頃には、ほかの堀のように埋め立てられ運動場にする計画が持ち上がったと聞きます。経緯は分かりませんが、以後も水が抜かれることはなく藩政期の風情が残され今日に至ります。
(大手御門跡(尾坂門))
(大手堀の桜並木)
大手堀は大手御門(尾坂門)と西丁口御門(黒門)を結ぶ堀で、利家公の死後、2代目前田利長公の徳川家康暗殺疑惑が持ち上がり、「加賀征伐」が一触即発となります。重臣の横山長知の半年に及ぶ徳川説得の一方で高山右近に命じ対徳川戦を想定し、慶長 4年(1599)金沢城修築に当らせます。右近は新丸を築きその外側に大手堀を開削し、一向一揆の時代より正門の西丁御門(黒門)を改め、尾坂を大手御門とし、さらに内惣構が掘削させます。この事件を加賀藩では「慶長の危機」と言われています。
(大手堀と石垣)
(徳川対前田の交戦回避は、芳春院を人質として江戸の家康に差し出す事と養嗣子利常公と家康の孫娘・珠姫(徳川秀忠娘)を結婚させることなどを約します。)
(堀脇の歩道と車道)
参考ブログ
金沢城のお膝元・・・今町・中町
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10777285912.html
尾張町①石垣下の一等地!
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10777285912.html
(延宝の金沢図・石川県立図書館蔵)
≪金沢城の成り立ち≫
天文15年(1546)加賀一向一揆が金沢御堂と呼ばれる寺院を創建しました。戦国時代で、寺院といってももちろん要塞を兼ねており、加賀支配の拠点となりました。
(金沢城二の丸・五十間長屋)
天正8年(1580)織田信長の家臣柴田勝家が金沢御堂を制圧し、勝家の甥佐久間盛政が城主として入りました。盛政は城郭及び城下町を整備し、金沢城の基礎を築きました。
天正11年(1583)賤ヶ岳の合戦で勝家が羽柴秀吉に敗れ、盛政が処刑されたのち、前田利家公が加賀を加増されて、金沢城に入城し尾山城と改めました。
(石川門)
天正15年(1587) 利家公はかつてキリシタン大名高山右近を呼んで大改修を行っています。この頃に名称を金沢城に戻したといわれています。城の改修は、利家公の息子利長公によっても行われ、百万石の本拠にふさわしい壮大な城郭が整備されました。
文禄元年(1592)利家の子の前田利長公によって再び大改造が行われ、百間堀(蓮池堀)、宮守堀(いもり堀)、白鳥堀等を開削、五重の天守が建てられたといわれています。この頃に名称を金沢城に戻したといわれています。
慶長4年(1599)豊臣秀吉の死後、追うように利家公が死に金沢城は2代目利長公の居城となり、慶長の危機により、高山右近により新丸を築き、その外側に大手堀を開削されたと伝えられています。また、かっての正門の西丁御門(黒門)に改め尾坂を大手御門とします。さらに内惣構を築きます。
(参考:内惣構は、城下にぐるりと堀を巡らすことで、城郭本体だけではなく、町全体の性格を変えてしまう大工事で、右近は、城を中心に西側と東側に分けて総延長約3キロ、いずれも浅野川に流れ出る構造の堀を造り、金沢はドーナツのような環濠(かんごう)都市に生まれ変る。掘り込んだ土を城側に盛り上げて堤(土居)にし、頂部に竹などを植えて固めた。これで百間堀や白鳥堀に加えて、前線で敵をさえぎる強固な防衛線が構築されます。)
(大手門の石垣とお堀)
慶長7年(1602) 天守が落雷によって焼失、代わりに三階櫓が建造された。また、この頃から金沢城という名称が定着した。
寛永4年(1631)の大火で城中全焼の後は本丸御殿も再建されず、翌寛永5年1632)に二の丸御殿を再建し以後はここが中心となります。
(橋爪門の夕日)
(前田利長公。父は前田利家。母・芳春院(まつ)。正室・永姫は織田信長の娘。羽柴肥前守、越中少将と呼ばれ、追贈された官位は正二位・権大納言。)
(つづく)
参考文献:「よみがえる金沢城」金沢城研究調査室編・北国新聞社・平成18年3月発行など