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金沢城の外濠公園③白鳥堀の由来!?

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【金沢・丸の内】

白鳥堀が何時開削されたのかを知りたくて調べていたら、手元にあった石川県金沢城・兼六園管理事務所発行のパンフの金沢城建築関係略表に書かれていました。その表では文禄元年(1592)文禄の役。金沢城大改修。百間堀(蓮池堀)、いもり堀、白鳥堀等を掘る。と書かれています。

 

 

(白鳥路の中程から先は百間堀)

 

実は、かなり前から江戸城にも白鳥堀蓮池堀が金沢城と同じ構図で並んでいることを知っていましたが、どうも金沢城の白鳥堀蓮池堀は、そのパクリではないかということが気になっていました。慶長6年(1601)に、僅か3歳で江戸から金沢へ徳川家康の孫娘「珠姫さま」が輿入れします。(実際に婚儀が行われたのは慶長10年(16054月頃か?)一説には、江戸生まれの「珠姫さま」をお慰めしようと金沢の堀も江戸風に白鳥堀蓮池堀に呼ばれたというものらしい・・・。

 

 

(白鳥路の彫像)

 

参考

加賀百万石紀行(北國新聞夕刊2000/08/12付)

連載企画築城金沢・匠の心

www.hokkoku.co.jp/kagakikou/chikujyo/chiku19.html

 

しかし、上記「金沢城建築関係略表」によると珠姫さまに輿入れ9も前に開削されていますが、その頃から堀の名前が白鳥堀だったかはよく分かりません。加賀藩の歴史辞典「加能郷土辞彙」では、「ハクチョウボリ 白鳥堀 」金澤城三ノ丸石川門脇より新丸尾坂門の邊迄の外面に連續した塹である。白鳥堀の名義は、ここに白鳥を放飼したことがあるに因る。(加能郷土辞彙 P671)とあり、時期や由来が書かれていません。

 

「金澤古蹟志」では、白鳥堀と云う名義の来由、未だ詳かならず。とあり、残念ながら消化不良でイライラが募ります。何方かご存知に方、教えて頂ければ幸いです。

 

 

 (白鳥路の白鳥の像)

 

≪金沢古蹟志の白鳥堀≫

この堀は三ノ丸石川門脇より新丸尾坂門の邊迄連続せる塹なり。白鳥堀と云う名義の来由、未だ詳かならず。或は曰く。従前は此の堀へ、白鳥来て居止りける事折々あり。若しくはさる由縁を以て呼びそめたるならんか。平次(柿園)按ずるに、小松城にも、白鳥堀と云ふ称あり。此の堀の名は、利常卿の時白鳥を放ち置かれたるゆゑの名称ならんか。明暦元年九月田井村五兵衛の書簡に、小松御城廻り堤に御放し飼い被成候白鳥、当地湊廻りへ来居候間、右白鳥取申事、竪く御停止之旨被仰出。とあり。さればおもふに、改作所旧紀に載せたる寛文三年六月算用場よりの建書に。御城中に白鳥御はなし置くに付て、切々潟端へも参申処、頃日一羽見え不申。定而潟端之者共網にて捕申様に被存候。急度吟味可致云々。とありて、此の頃参議綱紀卿入部の初め、金澤城内に白鳥を被飼置よしなり。金澤城の白鳥堀は、それより以前既に白鳥堀と呼びたりしか、若しくは寛文頃より呼びそめたるならんか。追考すベし。(金澤古蹟志巻5 P16

 

 

 (石川門)

 

≪金澤古蹟志の石川門≫

此の門は搦手の正門にて、此の門より右方なる堀を蓮池堀と称し、左方なる堀をば白鳥堀と呼べり。両堀の間は、所謂土橋といふべし。有澤武貞の金澤細見図譜に、承応・明暦(16521658の頃までは、三ノ丸河北・石川両門を無滞貧賎老少男女共往来せし処、白鳥堀へ往来の女身を投げゝるより、普通の往来停止と成りたり。といへり。三州志来因概覧禄に云ふ。石川門の名は、石川郡に向ふ門と云ふ義成るべし。此の門名の初見は、承応の頃白鳥堀へ溺婦あるより、石川門内妄りに往来を禁ずと見ゆれば、此の頃よりの事ならんといへり。平次(柿園)按ずるに、此の門名はさる晩年の事に非ず。慶長の古図に、既に石川門と載せたれば、河北門と同じく藩祖利家卿入城の初めより称し来たれ門名なるべし。(金澤古蹟志巻5 P15

 

(明治の文豪泉鏡花が青年期、煩悶の末、この百間堀(蓮池堀)に入水自殺を図ろうとしたのを、“またいとこ”の「目細てるさん」が助けた話は有名です。 この「てるさん」がいなければ、文豪として名を馳せた泉鏡花はなかったかも・・・・)

 

(裁判所の横の青色の堀)

 

白鳥堀が埋められたのは、明治の末と言われていますが、市電が開通したい1年後の大正9年(1920)の金沢新市街図には、白鳥堀が描かれています?

 

PS

白鳥路は、私の小学生の頃、木々が生い茂り空も見えないところで、怖くて通り抜けたこともありませんでした。今、付近も含め無理やり思い出すと、百間堀口にある鯉や杜若の池のところにあったヨーロッパ風庭園での出来事です。

 

 

 (白鳥路の入口の池)

 

兼六園周辺の写生大会です。兼六園内で何処を描くかに悩み、どんどん遠くへ離れていくと、紺屋坂の下に園内とは全く違うヨーロッパ風の池に小便小僧?が立っていました。子ども心に面白く思ったのでしょう?回りを見回すと下級生が一人いるだけで、後には誰も居なかったように記憶しています。

 

 

  (白鳥路を人力車が行く)

 

今、思うと、昭和20年代の後半、あの場所にヨーロッパ風の庭園があったなんてことは若い人は誰も信じられでしょうが、当時、誰も違和感がなかったのか?確かに“らしくない”としか言いようが無く、今なら直ぐに市民のブーイングや反対運動が起こってもおかしくない景観でした。

 

しかし、写生は意外とうまくいき、その場にいた、大人の人から誉められて、舞い上がってしまった事だけ思い出されます。確か、その作品は、提出場所が遠かったせいか提出しなかったようですが、その事から私は絵がうまいのだと自覚するようになったのは確かです。

 

参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行・「加能郷土辞彙」日置謙編

 


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