【広坂1番丁・上柿木畠】
明治4年(1871)から昭和41年(1966)まで、いわゆる金沢市内の住居表示変更以前、今の百万石通り(広坂1丁目・2丁目)を大通りは勿論、石浦神社向かい側の今の金沢21美術館から惣構堀まで、市役所の横の通りから宮内橋までを「広坂通」と呼ばれていました。宮内橋を渡ると左手の石川県知事公舎(元壮猶館・箆蔵的場跡)が有り、当時は上柿木畠1番地でした。
(市役所横、至る宮内橋)
広坂通りは明治4年(1871)に町名として採用され、戦後、住居表示制度の変更により、昭和39年(1964)に本多町三丁目、昭和41年(1966)に広坂一丁目・二丁目、香林坊一丁目に分割され、広坂通りは通称になり、今は、この大通りは「百万石通り」といいます。昭和61年度(1986)に旧通産省と「道の日」実行委員会により制定された日本の特色ある優れた道路「日本の道100選」104本の内一つで、金沢城公園と兼六園を一周する道路等をいい、道路は各地区にまたがり、地域が特定できなので、地区を示すのには不向きで、市民は町名または“尾張町通り”や“兼六坂通り”等と同じく「広坂通り」と通称で呼んでいます。
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(左が今の市役所)
昭和30年頃の市役所の横の通り(広坂通)の市役所側は、農協のビルに並びに能楽堂があり、小路を挟んで県警本部長の官舎。反対側はお福の生菓子屋、代書屋、建設会館、山徳の旅館、写真屋さんなどが続き付属中学校の運動場の金網のフェンスが連なっていました。その先の宮内橋を下ると広見になり、惣構堀を挟んで左手に知事公舎が、右は惣構の堀と下柿木畠へ通じる道路が連なり、知事公舎の前には北陸学院の中等部(現市役所別館工事中)がありました。
(今の金沢21美・付属中学校跡)
(山徳旅館跡)
(今金沢美大にある、警察本部長官舎)
(能楽堂の模型・金沢能楽美術館)
≪宮内橋≫
金沢橋梁記によると、宮内橋は堂形(広坂通)下りとあり、この橋は畳屋橋の次の惣構堀往来にかかる橋で、延宝の金沢図では堂形前に行く橋の高、西側がすべて小幡宮内の屋敷だったので、宮内橋とも宮内殿橋と呼ばれ、元は板橋で、元は橋の上下に惣構番人の家屋があり、廃藩後の明治7年(1874)に土橋(長さ5間、幅2間、深さ1間2尺明治13年皇国地誌)になります。
(宮内橋の金箔は、平成15年、金沢市民研究機構の1期生の仕業!?)
(惣構堀)
(小幡宮内は、3代藩主利常公の生母寿福院の縁者で、禄高1万950石の大身で、山城の井手の玉川の蛙を取り寄せ橋下の惣構堀に放ち、その声を聞いて楽しんだという伝説があります。)
(小幡宮内は、宮内橋下の惣構堀の蛙を放し声を聞いたらしい)
≪箆蔵跡(のぐらあと)≫
箆倉(のぐら・弓矢の倉)の起源は2代利長公・3代利常公の頃と言われ、油酒屋三右衛門伝記に、富樫氏同祖林家の子孫三郎右衛門と言う者が石川郡矢作村(野々市市)へ移住。矢作村は古来矢をつくる者が多くいて、この業を学び慶長の年中に金沢に出て、畳屋橋辺りに移住し、矢作りを業とします。
(延宝の金沢図・石川県立図書館蔵)
そのためこの地を箆倉(のぐら)と呼んだとも、そこに箆倉(のぐら)が有ったので三郎右衛門が移り住んだといわれていますが、いずれにしても慶長の頃には、この地に箆倉(のぐら)が有り、延宝の金沢図には箆庫的的場があり、それ以後の図にも、長屋氏の邸地畳屋橋の方に入口の柵門がります。幕末の壮猶館が建設されるまで、畳屋橋の脇に表門がありました。
(壮猶館の門)
≪壮猶館≫
この地は、弘化嘉永の頃までは、箆倉の的場とて、旧藩軽卒の射場で嘉永6年(1853)外国船が来航し、海防手当の火術稽古場となり、弓術の射芸を廃し、射場の地内は狭く、嘉永6年(1853)12月隣接の藩士渡辺氏および本多氏下屋敷内に居住する家士青木友右衛門・矢野三内・青木亮助・山岡孫左衛門・茶堂浅野宗ト及び佐久間十左衛門揚屋敷等、惣坪数1500歩が藩の用地となり、翌年春2月5日迄に残らず立ち退く。また、宮内橋番人小河屋普助以下三人の居宅は、箆倉的場の地内にして宮内橋の下にあったのを、橋の上へ移転を命ぜられ、嘉永7年(1854)5月より工事に入り夏頃には完成し壮猶舘と改称されます。
(今の知事公舎・壮猶館跡)
参考ブログ
幕末の爆発事故!硝石は改築の町家からも採集
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11160339841.html
他、「市民が見つける金沢再発見」には壮猶館の記事多数
(壮猶館跡・今の県知事公舎)
壮猶館は、洋式の兵学校でした。西洋流の砲術の練兵場ですが、その洋式の砲術だけでなく、蘭学・英学・医学・航海学・測量学・西洋数学等を学ぶ加賀藩の洋学のメッカとなります。壮猶館は実力主義で、有能な者は身分を問わず登用されたと伝えられています。
参考ブログ
卯辰山⑤卯辰山開拓(その4)
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11554734677.html
(壮猶館跡(県知事公舎)より市役所方面)
明治維新後、廃藩置県の発令で壮猶館は廃館になり、明治5年(1872)、窮民無産の者の営業のため、壮猶館の建物の修理を出願して、明治5年(1872)、区に一時貸渡しになり、区方開拓所と称し、老壮幼の別なく入場を請う者は、“草履”をくくり“むしろ”を織るなどの軽作業をさせ、日々その価を給与す。明治6年(1873)勧業試験所と改称し、明治7年(1874)には石川勧業場に、明治9年(1876)石川県勧業場をなります。
(明治9年(1876)12月4日に壮猶館内にあった石川県農事講習所(農学校の前身)が創設されましたが、明治18年(1885)4月羽咋郡火打谷の移り石川県農学校と改称されています。)
明治19年(1886)には、この地を当時の知事岩村高俊氏の私邸に、明治23年(1890)、愛知県知事を転任のため売却して横山隆平男爵が買受けます。
(岩村県知事)
(岩村 高俊(いわむら たかとし)弘化2年(1845)11月10日(12・8)- 明治39年(1906)1月4日は、江戸時代後期の土佐藩士、明治期の官僚、華族で、以後は内務省の大書記官、石川、愛知、福岡、広島の県令や知事を歴任、明治25年(1892)に貴族院議員となり、明治29年(1896)6月5日には男爵に叙された。)
明治27年(1894)にこの跡地を北陸の鉱山王といわれた、横山家が購入し邸宅を建てます。
(知事公舎前の建設中の第2市庁舎)
大正14年(1925)石川県がこの家を買い上げ改造し知事官舎とします。知事官舎は大正15年(1926)5月8日に完成し、現在、住所は広坂1丁目8-28に変わりましたが、今も知事公舎として使用されています。
(つづく)
参考文献:「金沢・柿木畠」柿木畠振興会 平成4年発行・「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行他