【広坂1・片町1・上下柿木畠・柿木畠】
表題を“旧上下柿木畠”としましたが、昭和41年(1966)の住居表示変更で、旧上柿木畠が全て広坂1丁目に表示が変更になったと思い込んでいました。今回、調べて見ると「早川浩之の内科医院」辺りから鞍月用水をまたぐ一角が、どっこい、今も”上柿木畠“として残り、日本キリスト教団金沢教会横の鞍月用水から竪町まで町名”下柿木畠“が残っていました。
(残っていた上柿木畠)
平成2年(1990)に発行された読売新聞金沢総局の「金沢百年町名を辿る」の中に、当時住人の話に「なぜか(町名が)残ったんですね。変更の話はなかったようです。・・・・」と語ったという記事があります。町名変更に対し住民の反対もないのにこの上柿木畠10軒(現在、他に上柿木畠4-1のマンションカーサ・フォテスク16戸有り)と下柿木畠の5軒(現在、ビル2棟と後は駐車場)が残った経緯はよく分かりませんが、平成15年(2003)10月1日に柿木畠の町名が復活し、従来からの上柿木畠、下柿木畠と、町名として“3つの柿木畠”が存在しています。
(Googiマップの上柿木畠)
≪明治以後の上下柿木畠の変遷≫
藩政期から明治4年(1871)まで柿木畠は一つの町でした。その年の金沢の新定区画で柿木畠は第二区に所属することになり、その時、上と下の柿木畠に分離します。翌明治5年の改定区画で前の第二区から第九区になり、その第三番組が上柿木畠に、第一番組が下柿木畠に属することになります。以後、明治9年(1876)の改定では、金沢が第十大区になり、小一区から小十区に上下柿木畠は小七区に、明治11年(1878)には金沢は一連区から七連区に、上下柿木畠は二連区に所属します。
(元上柿木畠で今、柿木畠の日本旅館)
明治22年(1898)には市制が敷かれ、金沢区は金沢市になり、第一区から第十二区までになり、上下柿木畠は第三区に属します。さらに明治25年は、金沢市の区画は第一区から第七区になり、上下柿木畠は第二区の所属となります。当時、金沢市には536の町があり、各町筋に所属し、上下柿木畠は竪町筋(36ヶ町)に属しています。
(新定区画は、廃藩置県後まもなく実施された地方行政区画制度で、20年近く、住民の意向とは全く無関係で、行政立場から施行されたもので、旧支配体制を払拭し近代的合理制を実施しようと云う姿は窺えますが、こう頻繁に変わったのでは、今の時代で有れば、非難轟々、炎上ものですネ!!)
(元柿木畠の町並み(現在柿木畠後ろは金沢市役所)
≪明治13年(1880)の「皇国地誌」≫
上柿木畠
「厩橋ヨリ東方宮内橋ニ至リ、北方広坂通ニ接シテ西ニ折レ、茨木町ニ通ス。三町(約327m)許、幅広キハ七間(約12,0m)狭キハ弐間(約3,6m)属巷(まちなか)西南ニアリテ里見町ニ通ス」
(元このあたりまで、上柿木畠・現広坂1丁目・白い塀は市役所別館の工事現場)
下柿木畠
「片町ノ北頭ヨリ東南ニ入リ、厩橋ニ至リ、南ニ折レ竪町ニ通ス。弐町三拾三間(約808m)許。幅広キハ四間(約7,2m)、狭キハ壱間三尺(約2,7m)。又属巷(まちなか)西ニアリ」
(下柿木畠の宮保旅館跡の駐車場・明治の初代金沢市長稲垣義方の屋敷跡)
(Googliマップ・下柿木畠)
P,S
日本キリスト教団金沢教会前は、今は暗渠になり歩道ですが、かっては開渠の鞍月用水が流れ、そこは厩橋とも御厩橋とも言われた橋が架かっていました。「御」を付けらて呼ばれたのは、藩政期、この付近が御厩町と呼ばれたのは加賀藩士の御馬役の者の住居があり、そこに預けられた馬の厩舎があったところから町名が付けられたたといわれ「御厩町柿木畠」と書かれた記録もあります。その近くに有ったので御厩橋と言われたもの思われます。
(金沢教会・この前の鞍月用水が昭和41まで、上と下の柿木畠の境界)
(金沢教会前の「旧」の字が埋められて柿木畠の石標)
明治になり、この厩橋を境に柿木畠が上と下に分離しますが、今、歩道のところに「柿木畠」の由来を刻んだ「まちしるべ」があります。これは金沢市の文化事業の一つで、町名や地名を文化遺産として継承するため設置されたものです。町名の他、坂や堀、用水などについて伝える標柱が昭和54年(1979)~平成22年(2010)にかけて金沢市内の224ヶ所に設置されたものです。
(設置された当時、この場所は「広坂(ひろさか)1丁目」でしたが、平成15年(2003)10月に町名が復活したため「旧」の文字が埋められています。)
(つづく)
参考文献:「金沢百年町名を辿る」平成2年(1990)読売新聞金沢総局発行・:「金沢・柿木畠」柿木畠振興会 平成4年発行・「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行他