広坂通りから柿木畠②旧上下柿木畠
【広坂1・片町1・上下柿木畠・柿木畠】表題を“旧上下柿木畠”としましたが、昭和41年(1966)の住居表示変更で、旧上柿木畠が全て広坂1丁目に表示が変更になったと思い込んでいました。今回、調べて見ると「早川浩之の内科医院」辺りから鞍月用水をまたぐ一角が、どっこい、今も”上柿木畠“として残り、日本キリスト教団金沢教会横の鞍月用水から竪町まで町名”下柿木畠“が残っていました。 (残っていた上柿木畠)...
View Article広坂通りから柿木畠③柿木畠と森田柿園
【柿木畠】私が知る”加賀藩・金沢城下の由来・沿革””町のなり立ち”や”そこに住んだ人々”のことは、幕末から明治後期まで柿木畠住人の森田柿園(平次)の著作「金沢古蹟志」はじめ柿園の著作物が殆どを占めていると云っても過言ではありません。 (金沢城)...
View Article広坂通りから柿木畠④森田柿園の「金沢古蹟誌」
【柿木畠】さすが森田柿園、地元柿木畠には思い入れが有ったのでしょうか「金沢古蹟誌 巻13」の柿木畠の項「城南柿木畠百姓町筋」57ページ内、柿木畠辺りが30ページも割かれていています。 (元御厩橋の柿の木)...
View Article柿木畠の明治女流俳人伝説中川富女①
【旧上柿木畠】 わが恋は林檎のごとく美しき 富女 明治の女流俳人中川富女は、明治8年(1875)金沢生まれ。角川学芸出版の「鑑賞女性俳句の世界」で松井貴子氏が「百万石の光彩、そして闇」に、明治30年(1897)前後の金沢俳壇で鮮烈な光彩を放ちながら、わずか2年ほどで忽然と消えた俳人として紹介されています。 (中川富女の藤屋旅館の在ったところ)...
View Article柿木畠の女流俳人②富女と謡曲
【柿木畠】明治42年(1909)8月21日、10年ぶりに金沢を訪れた河東碧梧桐は町の彼方に見える医王山の峰々が靄(もや)っていた。金沢停車場に降り立ち、ひと雨来そうだなと思った。齢若い書生が迎えに来ていた。開口一番、心に気にかけていたことを口にしていた。 「君、富女という俳人を知っているかい」...
View Article豆腐一丁!?卯辰の七面さん蓮覚寺
【東山2丁目】先日、小立野公民館の行事「史跡めぐり」で、日蓮宗の蓮覚寺さんに行ってきました。私は初めてのお参りでした。藩政期から、室町時代の作とされる秘仏の画像七面大明神を祀っていることから「卯辰の七面さん」と呼ばれ、所願成就と云うことで、何もかも上手くいくと言うので、宗派を越えて多くの信者が詣でたといいます。 (蓮覚寺)...
View Article「釣天井があった家」森山の足軽屋敷跡
【森山二丁目(旧森山5番丁)】今、流行の「断捨離」ではありませんが、暫くぶりに本棚の整理をしていたら数年開いていない本「加賀能登の家」が目に触れました。内容は地元に残る古い家屋敷が白黒の写真に解説付きで載っていて、解説には、確か昔中学校で習った先生も執筆されていたことを思い出しページを繰ると、2人の中学時代の先生と何年か前に古文書を習った先生も執筆なさっていました。 (加賀能登の家)...
View Article人馬同居!?のシルクスリーン工房
【金沢市北袋町】湯涌温泉近く北袋町に、近郷の明治・大正期の貴重な建物を保存活用するため、金沢市が整備し里山の文化拠点「金沢湯涌創作の森」があります。5つの登録有形文化財を含む古民家を改装し、専門設備が完備した銅版画、リトグラフ、木版画の版画制作工房や草木染、藍染、織の染織工房、シルクスクリーン工房と交流研修施設、宿泊棟、ギャラリーがあり、誰もが使える自由な創作活動や作品発表の場となっています。...
View Article浅野川大橋を渡ると・・・旧森下町の古風な町家
【東山2丁目】今、賑わっている「ひがし茶屋街」に繫がる浅野川大橋たもと、旧森下町の通りに、気になる昔の町家が連なる一画が有ります。その中でも看板も無く、商売もしていない素朴な町家ですが、何故か存在感のある角家が目を引きます。 (浅野川大橋) (東山2丁目の越沢家周辺)...
View Article専光寺さんと加賀の千代女②
【本町(旧田丸町)】専光寺さんの築地塀は5本の筋塀です。この5本筋は定規筋(じょうぎすじ)ともいい最高格を表わすものだそうで、金沢で多く見られるのは3本筋のもので、4本筋のものも幾つかあります。5本筋は京都御所、門跡寺院、東本願寺及び西本願寺などにあり、金沢では、ここ専光寺と東別院、西別院、大谷廟所に見られます。 (専光寺の筋塀5本筋)...
View Article作庭記と兼六園①
【兼六園・十間町】何年か前に「兼六園全史」の“第三節 兼六園と作庭記“に触れ、その写本が金沢の古美術商谷庄さんの所蔵だと言うことを知り、一度調べてみたいと思っていまいしたが、なかなか神輿が上がらず、また、文章だけの記述は読んでいてもチンプンカンプン。私には、手に負えないモノだと思い込んでいました。 (兼六園霞ヶ池) 最近、兼六園全史を調べる機会があり、またまた“第三節...
View Article「兼六園」で具現化された仏教・神仙思想など
【兼六町】平安時代、京都では庭園に「阿弥陀信仰」による浄土の世界を写すことが流行ります。浄土とは仏様の住むところで、西方浄土 (極楽浄土)...
View Article作庭記と兼六園②
【兼六園】すみません。暫く休んでいましたが、今回から何回になるか分かりませんが、日本最古の造園資料の写本「作庭記」(谷村庄平蔵)と兼六園の関係を少し調べてみる事にしました。作庭記の項目順に、原文と簡単な解説、そして兼六園との関係を記します。 (石をたてん事、蓬莱島の亀頭)...
View Article作庭記と兼六園③
【兼六園】作庭記では、もっとも重視された四神相応観が庭作りの上でも重要視されていて、さらに陰陽五行説に基づく理論化が窺えます。また王朝の住宅建築様式の寝殿造りを前提とした説明がなされていて、その内容は、前半において立石の概要に始まり、島・池・河などの様々について論じ、滝を立てる次第、遣水の次第が詳述されています。 (真弓坂の石)...
View Article兼六園と作庭記⑥
【兼六園】8、立石様(石の置き方、沼の様・葦手の様)《原文》一、沼様は、石をたつることはまれにして、ここかしこのいり江に、あし、かつみ、あやめ、かきつはたやうの水草をあらしめて、とりたてたる島などはなくて、水のおもてを眇々とみすべきなり。池様といふは、溝の水の入集れるたまり水也。しかれば、水の出入の所あるべからず。水をバおもひがけぬところより、かくしいるべきなり。又水のおもてを、たかくみすべし。...
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