【柿木畠】
私が知る”加賀藩・金沢城下の由来・沿革””町のなり立ち”や”そこに住んだ人々”のことは、幕末から明治後期まで柿木畠住人の森田柿園(平次)の著作「金沢古蹟志」はじめ柿園の著作物が殆どを占めていると云っても過言ではありません。
(金沢城)
思えば観光ボランティアガイドになって10数年、町を歩く中で沸いた疑問や思ったことを図書館の駆け込み「金沢古蹟志」を引っ張り出し、ページを繰ってメモったりコピーをしていました。最近では家で調べられるようになり、今まで溜まったコピー類はファイルにし大切に保存しています。
(森田柿園夫婦「金沢柿木畠」より)
ところで、前にも拙ブログ「広坂通りから香林坊③「金沢古蹟誌」の香林坊」で森田柿園(平次)を少し書きましたが、もう少し辿ってみたくなり調べてみます。
(今の柿木畠)
森田家の元祖は、越前吉田郡森田村(現福井市)の出身で、初め加賀藩士中川家に仕え知行40石の陪臣の家柄でした。4代の森田盛昌は「自他群書」「漸得雑記」「咄随筆」などの著作があり、その頃は嶋田町(金沢駅の辺り)に住んでいたそうです
。
(今の柿木畠)
平次の曽祖父にあたる7代の武右衛門のとき御馬廻組の茨木氏に仕えて50石、柿木畠に移ったのは、森田文庫の柿園が描いた地図には8代の作左衛門のとき、文化7年(1810)5月3日買請とあります。そのとき家禄は60石、家を「柿園舎」と名づけたのは柿の木にちなんだのでした。9代の大作良郷は文武諸芸にすぐれ、「続咄随筆」「泰雲公(10代重教)御年譜」「続漸得雑記」などの著作があります。
(赤丸が森田家・現在の地図に書き込む)
9代の大作良郷の長男が森田柿園(平次)で、平之祐、良見とも称し、祖父にならって柿園と号し、家督60石をついで茨木氏(2050石)に仕えますが、明治になり、金沢藩の寺社所、民政寮の神祇方役所、金沢県・石川県の社寺係に勤務して神仏分離をはじめとする神社行政に、深い学殖に基づいて卓抜した手腕を発揮しました。
(森田柿園の書いた図・「金沢柿木畠より」)
石川県と足羽県(現福井県)との間に、白山の頂上と山麓18ヵ村の帰属問題が生じたとき、綿密な考証によって石川県への所属を実現させたのは大きな功績でした。
(白山の下山仏)
明治9年(1876)54歳で石川県を退職してから加賀藩関係の記録類の編纂や著述に専念し、明治18年から30年まで旧藩主前田家の嘱託となり編纂事業に従事し、前田家をやめてからも執筆を続けましたが、85歳のとき縁側から落ち腰を打ってから歩行が困難になり、やがて病床につい翌年明治41年12月1日に逝去されます。
非常に勉強家で、眠るのは1日わずか3、4時間、用事のない時は目を閉じて視力の衰えるのを予防したという逸話があります。お墓は、金沢駅西の曹同宗放生寺にあります。
(金沢柿木畠」より)
≪著作・編纂≫
記録・文書集
「加賀藩国初遺文」「国事雑抄」「松雲公採集遺編類纂」
著名な著作
「白山復古記」「白山記攷証」「白山神社考」「金沢古蹟誌」「加賀志徴」「能登志徴」「越中志徴」「加賀貨幣禄」「万葉事実余情」「越中万葉遺事」「加越能氏族伝」
遺族が石川県立図書館に寄付
「森田文庫」の他、著作稿本や手写本など・・・。
●森田柿園の著作や編纂したものは91種類に及んでいます。
(つづく)
参考文献:「金沢・柿木畠」柿木畠振興会 平成4年発行・「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行他