【柿木畠】
さすが森田柿園、地元柿木畠には思い入れが有ったのでしょうか「金沢古蹟誌 巻13」の柿木畠の項「城南柿木畠百姓町筋」57ページ内、柿木畠辺りが30ページも割かれていています。
(元御厩橋の柿の木)
柿木畠は、寛永8年(1631)と12年(1635)の火災で、この一帯を火除地にするため、藩士に邸宅を移転させ空地にし、駄洒落の柿のもと火止まる(柿本人麻呂)と柿好きの藩主前田利常公に因み柿の木を植えます。しかし萬治元年(1658)利常公が小松で御薨去され、仕えていた藩士が金沢に戻ったため、再び藩士の邸地となりますが、地名はそのまま残りました。
(元厩橋界隈)
元禄時代には武家の邸宅も柿木畠と称す!!
≪柿木畠≫
此の地は今(明治以降)宮内橋の辺より、南は竪町口茜屋橋を境ひ、西は御厩橋までの問を上柿木畠とし、御既橋より香林坊橋までの間をば下柿木畠と称す。元禄六年(1693)の士帳に、柿木畠川除或は柿木畠水車の方などと記載し、其の中間に居住する諸士の邸宅をば、皆柿木畠と載せたり。此の地辺、むかしは都て火除地の為、柿木を植置かれしゆえに柿木畠と称し、その邸地となりにし後は町名に呼ぶとなれり。(原文)
(駐車場のところが森田柿園の屋敷跡)
宝暦年間、森田柿園の屋敷は柿や梨の接木畑でした!!
≪接木畑≫
宝暦八年(1758)の金澤図に出せる接木畑は、ここに描ける如し。但し宝暦三年(1753)癸酉の絵図には、御畑地と記載す。接木畑は、柿木畠の畑中に柿木或は梨木等の果樹などを継ぎ卸し、木種を培養せる畑地なしゆゑに、接木畑と呼びたるなるべし。(原文)
(宝暦八年の接木畑の図)
利常公は「柿が大好物」だった!!
≪柿木畠来歴≫
三壷記に云ふ。元和二年(1616)の頃、瀧與右衛門と云ふ者、石川・河北両郡裁許被二仰付一諸代官等も其の下司に随ふ。才川大橋より坂の上畠にて所々小松あるを町地となし、町中に挟まれる諸寺院を泉野へ移し、下口惣構の内の寺共は浅野川山の際へ移し、才川がけの上野に柿木畑・栗林・ぶとう棚、山のかたはしに、いちご畠をつけさせられ、野田道右手の野原に油木数十本植ゑさせられ、三ッ屋の在所に土蔵を立て、木の実を取入れ云々。菅家見聞集には、元和二年(1616)金澤中町々立替り、町中に有レ之寺庵をば、泉野並に浅野川山際へ集められ、野田道に並松を植え渡し、道並に馬場を付けられ、此の辺りに柿木畠・栗木林・葡萄棚・覆盆子(いちご)畑・油木等を植えせしめられ、宮越に直道を付けたり。右の事共今枝内記下知を以て、瀧與右衛門是を奉行すとあり。浅野茂枝曰く、 利常卿は都て菓物を甚だ数寄好ませ給ふにより、菓物を指上げけるに依って賜へる御書、或は御印をなし下し給へる献上目録共、旧家に多く持ち伝へたり。其の御書等を見るに柿の実を殊に好かせられし事知らせけりと。今按ずるに、柿の御書左の如し。
石川郡四十萬村全性寺所蔵
四十萬道場より柿・梨一折、祝着之よし心得候て可レ申候。
謹言。
九月廿四日 利光 印
(原文・当時の金沢の様子も窺えます。)
(当時、すでに利常公は柿が大好物だったことは有名で、柿の実の献上を受けたときの礼状やその分け与えた時の記録が残っているそうです。また、正徳元年(1711)の記録の中には、種の無い柿を加賀・能登・越中の三国で調査した記録もあるらしい・・・。)
(今の柿木畠のシンボルマーク)
その他、多くの文書に柿好きの利光(3代利常公)が書かれています。小松に在城の頃、小松葭島(あしじま)に美濃の八谷柿を植えさせたり、美濃よりつるし柿を取り寄せ、その皮を粉にし御菓子師に命じ米粉を混ぜ団子をつくり「柿搗(かきつき?)」と名付けたとか、それほど利常公は柿が大好物だったようで、金沢では、柿が植えられたところは、柿木畠を始め、木の新保の常福寺前の畑地や材木町の柿木町などに有ったといいます。これらはみな利常公召上用に植えられた地だと伝えられています。
今では、柿木畠の地名は火除け地として「柿のもと、火止まる(柿本人麻呂)」だけが有名になり、利常公が柿好きだったコトは伝えられていないようですネ・・・・。
(つづく)
参考文献:「金沢・柿木畠」柿木畠振興会 平成4年発行・「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行他