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専光寺さんと加賀の千代女②

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【本町(旧田丸町)】

専光寺さんの築地塀は5本の筋塀です。この5本筋は定規筋(じょうぎすじ)ともいい最高格を表わすものだそうで、金沢で多く見られるのは3本筋のもので、4本筋のものも幾つかあります。5本筋は京都御所、門跡寺院、東本願寺及び西本願寺などにあり、金沢では、ここ専光寺と東別院、西別院、大谷廟所に見られます。

 

(専光寺の筋塀5本筋)

 

筋塀とは、寺院などに見られる塀に白色の横筋(線)を刻んだもので、仏教建築と共に大陸から伝わり、奈良時代に宮殿や寺院などで始められました。5本筋のもので最も格式のある筋塀は壁面に須柱(すばしら)を並べ、5本筋を入れたものです。須柱とは、築地塀の壁面に一間ごとに並ぶ柱のことです。)

 

≪専光寺の法宝物≫

専光寺さんでは、毎年72526日の「法宝物虫干し御絵解」で、法宝物虫干しの機会に所蔵の文化財を、お参りの前後に、門徒の方や文化財に関心のある方に、ご覧になれるよう取り計らっておられますが、今年は725日に仲間の紹介で拝観させてい戴きました。

 

(広間での法宝物虫干しと絵解)

 

前回「専光寺さんと加賀の千代女①」の≪護方山専光寺さん≫で紹介した親鸞上人の真筆「三骨一廟」、存如上人真筆「三帖和讃」長享の一揆の「鶴丸の旗」それから蓮如上人の「御叱りの御書」などが目の前で見ることが出来、穴の開くほど見て来ました。写真撮影は、近くで撮ることは出来ませんが、お聞きすると新聞記事のように遠くから虫干しの雰囲気を伝える程度の写真なら良いというお話でしたので撮らせていただきました。

 

(虫干しで法宝物拝観)

(本堂)

 

≪専光寺の梵鐘≫

第二次世界大戦で戦局が悪化した日本では、武器生産の金属資源の不足から、昭和16年(194191日に施行された「国家動員法」に基づく金属類回収令により梵鐘が供出することになり、金沢でも多くの梵鐘が供出されました。その中で戦争に巻き込まれなかった15の梵鐘があります。専光寺の梵鐘は、一度供出されますが潰されず残ったものです。

 

(鐘楼と梵鐘)

 

(この梵鐘は、富山県高岡の藤田善六作で明治時代の製造です。明治のものは後2口あり、12口は江戸時代の名工作のものです。)

 

≪加賀千代女(尼)≫

千代女(元禄16年(1703)~安永4年(1775)享年73歳)は、俳人。号は草風、法名は素園千代、千代尼などとも呼ばれ、松任の聖興寺には遺品などを納めた遺芳館があります。松任(白山市)の表具師福増屋六兵衛の娘として生まれ、一般庶民にもかかわらず、幼い頃から俳諧をたしなんでいたといいます。 12歳の頃、奉公した本吉(美川)の北潟屋主人の岸弥左衛門(俳号・半睡、後に大睡)から俳諧を学ぶために弟子となり、16歳の頃には女流俳人として頭角をあらわしました。

 

(朝顔イメージ1)

 

17歳の頃、諸国行脚をしていた美濃に各務支考の後を継いだ蘆元坊(ろげんぼう)が地元に来ていると聞き、宿に赴き弟子にさせてくださいと頼むと、「さらば一句せよ」と、ホトトギスを題にした俳句を詠むよう求められます。千代女は俳句を夜通し言い続け、「ほととぎす郭公(ほととぎす)とて明にけり」という句で遂に蘆元坊に才能を認められ、指導を受けました。その事から名を一気に全国に広めることになります。

 

明治44年(1911)に、城丸花仙が著した「千代尼」には、18歳の享保5年(1720)大衆免大組組地(今の森山小学校)足軽福岡弥八に嫁ぎ、翌年、弥市が誕生、5年後の25歳で、夫を亡くし、その翌年122月に愛児弥市も亡くなり、5月に婚家をでて実家に帰ったとあります。

(未婚だったという説もあります。)

 

(朝顔イメージ2)

 

≪千代女の俳句≫

朝顔 つるべとられて もらい水  

朝顔 つるべとられて もらい水

(にをやに変えたのは35歳ごろとか・・・。)

 

だと、水を汲みに行くのは自力で、は切字でより強く詠嘆したもので、に変わったのは、自分朝顔も同じ生を戴いたもの同士という事から千代の自我が薄れたと云われ、お互い仏様から賜わり水を汲ませて戴くという他力になったと云う説があります。

 

に変わった転機は千代女35歳頃といわれていますが、浄土真宗のお坊さんの西山郷史氏によると、35歳は、祖師親鸞さんはじめ、仏教界における転機になった話を千代女が説教の場で聞いていたから、だったかもしれないからと言っています。(西山郷史)

 

(専光寺のお庭)

 

一方では、真蹟(聖興寺蔵)千代晩年刊行「千代尼句集」には、朝顔の句形で載っているそうです。朝顔と改案した真蹟が見られるのも、句の主眼が朝顔にあることを明確にするための試みだったのでは?朝顔は切字。句の姿とするとという小休止があると、格調高く本格的ですが、朝顔と切ると何(誰)につるべをとられたのか分からない。肝心の情景の輪郭自体があいまいになってしまう。最終的に朝顔の措辞を選んだ背景にはそうした心の経緯があったという解釈もあります。と書かれています。(山根公)

 

当時も超有名な句「朝顔や(に)・・・」には、こんな伝説もあります。その頃、松任は水の便が悪く、深井戸は450軒に一本と数は少なく、隣の井戸が遠く貰い水など出来なったのでは、というので松任の井戸ではない!?という疑問が生じ、井戸は奉公に行った本吉(美川)か?嫁ぎ先の大衆免足軽組地か?幼なじみの綿谷希因の家にあったのだろう?と根拠もない、いいかげんに推測が、何時しか、行ったことも無い江戸にある三田の「薬王寺」というお寺にある井戸が、今も「加賀千代女の井戸」と呼ばれているそうです。

 

(専光寺)

(専光寺の埋骨処)

 

生涯1700句を詠んだと言われる千代女です。代表的な句と言われている句に以下の句も含まれています。何れもよその人が詠んだ句だといわれています。いずれにしても、当時、超有名女性俳人は千代女だけ、女性のデリケートな心情を詠んだ句は、千代女の句になってしまったのかも・・・?

 

「トンボ釣り 今日はどこまで 行ったやら」

「這えば立て 立てば歩めの 親ごごろ」

「起きて見つ  寝て見つ蚊帳の  広さ哉」

 

何とも謎の多い不思議な女性だったのでしょうネ・・・。益々興味が募り、嵌ってしまいそうです。

 

(専光寺の千代尼の時世の句)

 

そして時世は

「月も見て 我はこの世を かしく哉」          

 

参考文献:「妙好人千代尼」西山郷史著 臥龍文庫 2018120日発行。 加賀の千代(女)」研究の第一人者俳文学会員山根公氏の中日新聞記事の引用。 まいどさんの渡辺三弘氏「戦争に巻き込まれず生き残った梵鐘」より


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