【本町(旧田丸町)】
先日、市民参加の企画「まいどさんと歩く、升形と駅周辺寺院巡り」のご案内をしました。前回3月に実施した一回目が好評で、二回目を開催することになり、下見と合わせ今週2度コースを歩きました。1回目は下見でまいどさんの24人の仲間と、2度目は市民公募で集まった43人のお客様をガイド3人で分担して歩きました。コースは金沢駅から専光寺さん、西福寺さん、金沢一中発祥の地、そしてお目当ての今年復活した「升形」、横安江町、東別院、西別院、徳田秋声の兄正田家跡、今「まちの踊り場」を巡る2時間です。
(専光寺のおがみ)
「升形」については以前に書きましたので、今日の話は、護方山専光寺さんです。今年7月に虫干しで初めて訪れ、御堂や寺宝も拝見し、興味を持ち調べるようになり、後ほど由来など詳しく書きますが、専光寺さんは、一向一揆以前から金沢近郊や市内にあり、しかも浄土真宗の3代覚如の弟子となった志念上人が開祖で、上人は88代後嵯峨天皇の孫で鎌倉7代征夷大将軍惟康親王の御子あることを知りました。
(冬桜、3月頃まで咲きます)
以前のガイドでは専光寺さんは門前を通るだけでしたが、数年前に境内の冬桜を見つけ金沢駅から長町への古地図巡りのガイドで花盛りの3月頃に県外のお客様をご案内して喜ばれましたが、その隣ある加賀の千代女(尼)のお墓では、碑の存在は存じていましたが、千代女は松任の人で、千代女といえば聖興寺と云う先入観もあり、まさかお墓だとは思わず、顕彰碑か何かだと思っていました。
(加賀の千代尼(女)のお墓)
(下見の時に始めて加賀の千代女のお墓だという事を知り、子どもの頃から千代女で知っている一般的な話をしても、私より知識がある会員に響かないと思い、咄嗟に千代女の事は知らないと云ってスルーしてしまい、その後、慌てて調べて本番では恥をかかずに済みましたが、今回は、度忘れや、間違い、特に浄土真宗では常識の「報恩講」を質問され、中途半端な答えしか言えず、お客様の助け船に救われるなど、予習と新たな勉強が足りないことに気付きました。)
「報恩講:浄土真宗の宗祖親鸞の祥月命日の前後に、宗祖親鸞に対する報恩謝徳のために営まれる法要で、本願寺三世覚如が、親鸞の三十三回忌に『報恩講私記(式)』を撰述したことが起源といわれ、浄土真宗の僧侶・門徒にとっては、年中行事の中でも最も重要な法要です。真宗大谷派(お東)11月21日〜28日」
仏旗がなびく報恩講の専光寺の門)
≪護方山専光寺さん≫
真宗大谷派に属する護方山専光寺は、開創以来700年の名刹です。浄土真宗本願寺三世覚如の弟子志念上人が石川郡大糠(大額)に創建したと伝えられ、永享9年(1437)に本願寺七世如から下付された「三帖和讃」に「加州吉藤専光寺」とあり、この時点で専光寺5世康寂が寺基を石川郡大野庄吉藤(現在の専光寺町)に移し、大野庄内では、門徒はもとより、領主臨川寺からも厚く信頼されていました。
(専光寺)
本願寺七世存如からは他にも聖教類を下付されており、また文明3年(1471)には八世蓮如から「親鸞絵伝」を下されていたことから、蓮如以前の加賀において、屈指の末寺とされていました。
文明14年(1482)には、「臨川寺領加賀国大野庄年貢算用状」に専光寺の記載があり、
北加賀の大野庄の最有力本願寺寺院と考えられていたようです。 加賀守護・冨樫政親を滅ぼした長享2年(1488)の長享一揆では、加賀の大坊主としての動向が「官知論」に記されており、「四山大坊主」の一員として重きを為していたと書かれているそうです。
(専光寺)
八世 蓮如以後、明応2年(1493)には本願寺九世実如(蓮如の子)から、専光寺開基の志念絵像が下付されているそうですが、2年後の明応4年(1495)「大野庄年貢算用状」には専光寺の記述はなく、この頃には連枝の寺賀州三ヶ寺(若松の本泉寺・波佐谷松岡寺・山田光教寺)の下に置かれていたことが推測できます。
(仏旗と隣りのビルに写る金箔を貼ったおがみ)
享禄の錯乱には賀州三ヶ寺派(小一揆)に属していたようで、乱後の本願寺十世証如の日記「天文日記」に「前吉藤下」「前専光寺下」として、もと専光寺門徒が本願寺の直参門徒に組み入れられています。
その後、天文20年(1551)2月に本願寺十世証如に「赦免」された享禄の錯乱及び天文の乱関係者が「加州牢人四十人」とあり、この中に専光寺も入っていたのではないかと考えられています。
(専光寺の門の脇の石標)
この時代になるとかつての隆盛もなく、そのまま石山合戦の時期を迎えたと考えられています。 慶長元年(1596)、専光寺8世康元の時、前田2代利長公に金沢後町に寺地を与えられ、その後若干の変転後、専光寺9世康宣が前田3代利常公から現在の寺地(金沢市本町)に替えられて現在に至っています。
藩政期には、加越能の総録所として一宗を薫事し、触頭としては136ヶ寺の触下を有し、その教線は、越後・佐渡・出羽・奥羽にまで及び、専光寺10世康照が東本願寺12世教如上人の女を室に迎えてから、再三東本願寺の宗主の子女を迎え姻戚関係を持ち現在に至っています。
(専光寺発行のごあんない)
旧地の石川郡吉藤は専光寺が転出した後、旧地名の吉藤が消えて専光寺村となり、現在、金沢市専光寺町の吉藤神社に吉藤の名が残っています。現在の専光寺は門とその後ろに見える本堂の大きさが大坊であることが窺えます。
(つづく)
参考文献:「専光寺のごあんない」他