【東山2丁目】
今、賑わっている「ひがし茶屋街」に繫がる浅野川大橋たもと、旧森下町の通りに、気になる昔の町家が連なる一画が有ります。その中でも看板も無く、商売もしていない素朴な町家ですが、何故か存在感のある角家が目を引きます。
(浅野川大橋)
(東山2丁目の越沢家周辺)
そこは大正・昭和初めから戦後まで茶道や古美術界で活躍された裏千家師匠の故越沢宗見(号竹窓庵得瘦叟)の家で、今も表札には越沢とあるので、そのご子孫の方が住まわれているのでしょう。先日も、女性の方が玄関に自転車を止めて入られるのを見ました。
(大通りに面した越沢家)
建物については、昭和50年(1975)発行の「加賀能登の家」の“粋人好みの床しさ 越沢家”と題した歴史研究者牧久雄氏の記事があります。外観は当時の記事の写真と殆ど変わっていないようすが、今と違うのは、大通りに面した4間と側面の2間の葦のすだれと丸太で組んだ覆の下方に隙間がありません。大通りの激しい車や人の動きから、砂や石が入らないように板の枠で囲ってあります。結構しっかり作られていて、大通りから中が見えず、住んでいる人の気配を消しているようです。
(越沢家と旧森下町の通リ)
通りからは1階建てのように見えますが2階建ての建物です。江戸時代の名残か屋根が低く見えるように造られ、外見は小屋根の上は低い格子が嵌っていて、その上の屋根は、向かい側から見れば明り取りのように見える屋根があります。横から見ると2階建てそのものですが、前を歩いていても2階建てに見えないように工夫されています。
(越沢家の側面)
建物内部は、前出の牧久雄氏が書かれたものですが、外から眺めるだけしか知らない私には、読んでいくと興味津々、是非、いつか自分の目で見たいと思うようになりました。記事のよると、玄関を入るとほの暗く、天井の低い家の中の様子は、いかにも時代流転の佇すまいだそうです。
(越沢家の玄関)
そして柱ですが、すべて紅殻塗りで、釘は一切使わず、カスガイに似た特殊な器具を要所に打ち込んであり、奥まった土蔵は、まことにしっかりしたもの。こじんまりした茶室の素材は粋人好みの床しさが心を引くと書かれています。
通り沿いの葦のすだれは、内部から外は透いで見えますが、外部から内が見えなく、外からの光は部屋の中からぼんやりと照らし、風通しもよさそうです。
(越沢家)
家の言い伝えによると、呉服商だった初代越沢太助が、明治初期、花道師浅野氏から買ったもので、建坪は約80坪(264㎡)。今から40数年前の語られた親戚の方の話では「この家はこれまで大掛かりな修理をしたことがなく昔のままです」と書かれています。また、こんな話も書かれています。昭和38年(1963)の豪雪で屋根雪に立ち会った大工によると、これくらいの積雪では絶対倒壊しなとか、また、地震にも強いと太鼓判を押したとか、あれから40数年果たして現在は?私でなくても覘いて見たくなる興味津々の建物です。
(越沢家)
この家の主、茶人越沢宗見(本名太助・号竹窓庵得叟)は、茶道の世界では、全国的にも知る人ぞ知る人と言われていますが、その実力は?宗見が茶道具を収める木箱に御書附(御書付、箱書、とも云う)をすると、作品の価値が高まったといわれているそうです。
金沢の前田利家公創建の寺護国山宝円寺の境内には、越沢宗見の彰徳碑があります。建立は昭和17年(1942)に建設されたもので、地蔵尊の形態がとられています。2段目に彫られている竹窓庵得叟というのは越沢宗見の号で、台座の文字は横書き3段になっています。また、その年月の記入のところに同じ金沢東山に生まれの20歳上で昭和22年(1947)9月22日公職追放を受けた直後の25日、熱海で投身自殺した法学博士清水澄(トオル)の名も見えます。
(宝円寺の越沢宗見に彰徳碑)
著作には「宗見茶話集(昭和25年)」や「越沢宗見翁茶道聞き書き抄(昭和45年)」があります。
参考文献:加賀能登の家」編者田中喜男 発行所株式会社北国出版社 昭和50年10月発行 追想・護国山宝円寺(曹洞宗) 著者園崎善一 平成14年8月発行