【金沢市北袋町】
湯涌温泉近く北袋町に、近郷の明治・大正期の貴重な建物を保存活用するため、金沢市が整備し里山の文化拠点「金沢湯涌創作の森」があります。5つの登録有形文化財を含む古民家を改装し、専門設備が完備した銅版画、リトグラフ、木版画の版画制作工房や草木染、藍染、織の染織工房、シルクスクリーン工房と交流研修施設、宿泊棟、ギャラリーがあり、誰もが使える自由な創作活動や作品発表の場となっています。
(金沢湯涌創作の森)
(金沢湯涌創作の森の施設は、昭和49年(1974)当時、湯涌温泉ホテル白雲楼の敷地に有った付属施設「江戸村」の姉妹施設として北袋町の里山に「檀風苑加賀記念館」としてオープンします。近郷から移築した建物には、金箔・象嵌・木地・和紙の制作用具など、重要有形民族文化財4件5,075点を含む1万点余りが収集されていました。しかし、ホテル白雲楼が平成9年(1997)の倒産に伴い9月「檀風苑加賀記念館」と「江戸村」が閉園になり、平成10年度(1998)金沢市が「檀風苑加賀記念館」「江戸村」を取得。「檀風苑加賀記念館」は平成15年(2003)10月、里山の文化拠点「金沢湯涌創作の森」として再オープンしました。)
参考ブログ
金沢湯涌創作の森
私と「金沢湯涌創作の森」の関わりは、再オープンの翌々年だったか、今、金沢21世紀美術館の副館長黒沢伸氏が「金沢湯涌創作の森」に転勤され、金沢21世紀美術館でお世話になったよしみで、催事や小学生のアートフル林間学校のボランティアとして参加させて戴いたのが始めでした。以来10数年、当初は若かったので小学生のアートフル林間学校、肝試し、打ち上げでは泊り掛けも厭わずやってまいりましたが、数年前から体力の衰えもあり、付いて行けなくなった矢先、昨年、病気で入院というアクシデントでボランティアも行くのも止めてしました。
(アートフル林間学校)
先日、「加賀能登の家」を見ていて「人馬同居の家 宮下家」の記事があるのに気付き、何回も本を見ていたのに、何10回も訪れているのに、今まで、そこが同じところだということに気付かなかったのが、はがゆく思いながら、ブログを書こうと当時の写真を探しますが、見つからず2年半ぶりに出かけました。
(今、シルクスクリーン工房)
(昭和50年当時の馬屋付きの住居)
(今の馬屋外と内)
車を走らせながら、10数年間のいろいろなことが思い出されます。何回目かの
アートフル林間学校で子ども達と裏山に登ると息が上がり、モタモタしていると子ども達が何回も迎えに来て無理をして頂上に登ったり、球技をすると足の衰えに気付かされ、暫くして動脈硬化と狭心症と診断され、冬場に入院し直ると翌年には、多少無理と知りながらもアートフル林間学校に復帰していました。
(アートフル林間学校)
また、子ども達と川に行き作ったボートのレースや子ども達の中には泳ぐ子も、また、肝試し、案山子づくり、消しゴム版画やシルクスクリーンで自分だけのTシャツづくりなど、それから、夕食のバーベキュー、その後のアイスクリームづくりなど、今、思うと子ども達に引っ張られながら楽しんでいたのだと気付かされます。
(案山子)
こんなことも有りました。炭焼き小屋が廃墟になり、そこにカブト虫が涌くほど繁殖し、採り放題状態になると、初めは多くの子ども達が喜んで採っていましたが、余にも多いので飽きてしまったのか?ゴキブリに見えたのか?帰るときには随分余ってしまったという記憶があります。
一番印象に残っているのは、平成20年(2008)7 月28日早朝、浅野川では記録的豪雨に見舞われ、湯涌地区は孤立してしまいました。その日、金沢創作の森には宿泊していた親子がいて、湯涌街道は不通で当然北袋町の金沢創作の森は孤立状態でした。その時、東京出身の所長が市内の者でも余り知らないキゴ山から歩いて宿泊客の食料を運んだと聞いたときは、よくそんな道を知っていたものだと感心しながらも感動したのが思い出されます。
(みんなで植えた朝顔)
(シルクスクリーン工房・小学生の作品)
久しぶりに訪問し、シルクスクリーンの講師の方と再会し、今度は作品づくりにお邪魔することを約束してきました。
人馬同居の家 宮下家 (原文) |
(「旧江戸村」は江戸時代の武家屋敷、商家、農家、10数棟門や土塀が立ち並ぶ博物観光施設で昭和42年(1967)湯涌温泉街の山の中腹にホテル白雲楼の施設せしたが、施設を引き継いだ金沢市は、文化財保存上、より適した温泉街北側の金沢市湯涌荒屋町35番地1への再移築に平成22年(2010)9月、農家3棟、武士住宅1棟、商家2棟、宿場問屋1棟、武家門1棟、総計8棟の移築が完了し、新たに「金沢湯涌江戸村」をオープンしました。)
参考文献:「加賀能登の家」編者田中喜男 発行所株式会社北国出版社 昭和50年10月発行 金沢湯涌創作の森のHPより