【森山二丁目(旧森山5番丁)】
今、流行の「断捨離」ではありませんが、暫くぶりに本棚の整理をしていたら数年開いていない本「加賀能登の家」が目に触れました。内容は地元に残る古い家屋敷が白黒の写真に解説付きで載っていて、解説には、確か昔中学校で習った先生も執筆されていたことを思い出しページを繰ると、2人の中学時代の先生と何年か前に古文書を習った先生も執筆なさっていました。
(加賀能登の家)
(「加賀能登の家」は、昭和50年(1975)。当時の北国出版社が建築学視点より、時間に生き、生活に生きる家と人にスポットをあてた記録と家の意味を考えたもので、当時の金沢経済大学教授田中喜男氏が編者で、能登28軒、金沢54軒、加賀16軒の計98軒を郷土史家、中学・高校の教諭等の識者58名が執筆に当たったものです。)
(我が家の本棚の一つ)
(加賀能登の家のページ)「釣天井のある家 山下家」
たま~に見ると新鮮に感じで、本の整理を中断して眺めていると、結構嵌ってしまいページを繰っていました。現存が確認出来る大野醤油の直江家や豪農の本岡家、尾張町の石黒家、飴の俵家、本多町の横山家など、他に職人の家や老舗の豆腐屋、足軽屋敷など、あれから40数年の歳月が流れ、今はどうなっているのだろうと云う思いがつのり、是非、見たいと言う衝動に駆られ、先日行動に移しました。
(山下家の現在)
(昭和50年頃の山下家)
一回目に定めたのは、中学時代の先生が執筆された森山2丁目16の「釣天井のある家 山下家」という足軽屋敷です。Googleの地図を開くとすぐ見つかりました。果たしてどうなっているのかワクワクして自転車を走らせました。石置き屋根がトタンに変わっているのだろうか?いやいや建物もあの特長あり板塀もすっかり消えてモダンな家が建っているのでは?と想像すると興奮が止まりません。
(安政年間の絵図・大組足軽組地(角)は併設の角場)
(昭和24年頃の森山町小学校周辺)
山の上町の光覚寺前の飴屋坂を下り、森山町小学校の前から地図で調べた森山善隣館横の小路を入ると一直線に走り最初の右を曲がると板塀が目に入りました。そこから暫く行くと右に40数年前と同じような板塀と塀を突き破った桜の木がありました。写真で見る40年前の桜の木は細かったのに!!そういえば、当の先生も当時40半ば、私も30半ば、つくずく、過ぎし歳月を思い知らされました。
(今の森山善隣館・白い建物は森山町小学校)
(反対方向から見た山下家の板塀)
塀はそのままの姿でしたが、真新しく感じられます。家は建て替えても板塀の風情はそのまま残したのでしょう?表札を見ると40数年前の記事と同じ山下貞雄とあり、お人柄がうかがえます。お声を掛けようか迷いましたが、取材でもないし、自分だけの楽しみでやっているので、町並みを眺めながら帰ってきました。
(森山2丁目は、明治になり、森山2番丁~5番丁や上田町などになりますが、藩政期には大組足軽組地で、鉄砲の訓練をする“角場”付きでした。大組足軽とは、加賀藩の戦闘要員としての主力部隊の内、鉄砲隊となる足軽で、その住居地が大組足軽組地で、その外の足軽には、中組足軽 持方足軽とも、弓足軽7隊、鉄砲足軽4隊で編成する全7組の足軽。先手組足軽 7組の人持組配下に属し、弓足軽7隊、鉄砲隊足軽14隊で編成された足軽。)
参考ブログ
足軽資料館①
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12223773596.html
足軽の暮らし②
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12224101306.html
足軽の仕事③
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12224366501.html
「加賀能登の家」の釣天井のある家の原文 |
(森山2丁目(旧森山5番丁)
参考文献:「加賀能登の家」編者田中喜男 発行所株式会社北国出版社 昭和50年10月発行