【東山2丁目】
先日、小立野公民館の行事「史跡めぐり」で、日蓮宗の蓮覚寺さんに行ってきました。私は初めてのお参りでした。藩政期から、室町時代の作とされる秘仏の画像七面大明神を祀っていることから「卯辰の七面さん」と呼ばれ、所願成就と云うことで、何もかも上手くいくと言うので、宗派を越えて多くの信者が詣でたといいます。
(蓮覚寺)
画像の七面大明神は、19年に一度のみ開帳ということから、平素は寛文元年(1661)作の胡粉極彩色木造の七面大明神を拝んでいますが、木像は家康の側室於万の方(長勝院、天文17年(1548)~元和5年(1620)から加賀藩初代前田利家公の側室寿福院が、側室同士の誼(よしみ)から?戴いたと伝えられています。
(於万の方は、物部姓永見氏の娘で、通称おこちゃ、於万の方、小督局ともいわれ、結城秀康の生母。)
(七面堂・正面木造の七面大明神)
七面大明神(しちめんだいみょうじん)は、七面天女とも呼ばれ日蓮宗系において法華経を守護するとされる女神で、七面天女は当初、日蓮宗総本山である身延山久遠寺の守護神として信仰され、日蓮宗が広まるにつれ、法華経を守護する神として各地の日蓮宗寺院で祀られるようになります。その本地は、山梨県南巨摩郡早川町にある標高1982mの七面山山頂にある寺(敬慎院)に祀られている神で、吉祥天とも弁財天ともいわれます。伝説によると、日蓮の弟子の日朗と南部實長公が登山して、永仁5年(1297)9月19日(旧暦)朝に七面大明神を勧請したと言われています。
(七面山は、古来より修験道が盛んな山で、山頂にある大きな池のほとりには池大神が祀られていて、その姿は役の小角の姿で、日蓮聖人の時代以前から、すでに七面山には山岳信仰の形態の一つとしての池の神の信仰がありました。日蓮より二百年余りの昔、京都の公卿の姫が業病にかかった際、厳島明神の「甲斐の国 波木井郷の水上に七つ池の霊山あり。その水にて浄めれば平癒せん」というお告げを受けて癒された姫君説話の舞台です。)
(蓮覚寺の解説板)
蓮覚寺(れんかくじ)さんは、 山号は本学山。寺記には、開基勧寺院日長が元和2年(1616)小庵を結び、当初は彦三辺りあり、弟子善行院日安(元石動山の修行僧)に小庵を譲られます。境内には七面堂があり、先に記した七面大明神の画像(伝説では土佐信之作といわれていたが、現在は土佐派と作といわれています。)があり、河北郡五箇庄清水谷村より出た当寺の開山檀那の清水屋清右衛門蓮覚日就が信仰し、善行院日安と謀り、日安は元々真言宗の僧であったが、京都の妙顕寺の12世玄孝院日尭の教えを受け改宗、寛永9年(1632)京都の本持妙顕寺の請い寺号を得ます。寺号は開山檀那の清水屋清右衛門蓮覚日就の名によるものです。
(蓮覚寺本堂)
(註:清水屋清右衛門は金沢古蹟志によるもの、善右衛門と書かれたものもあります。また、画像は文明の頃清水谷の直乗寺に安置されていたと書かれています。)
(七面小路)
≪七面小路≫
金沢古蹟志には、七面小路を、蓮覚寺の前通りより高道町に通じる往来也。とあり、その蓮覚寺は七面繁盛せしより、小路の名に呼びて、今も七面小路と称す。とありますが、お堂の老朽化と昭和38年の38(サンパチ)の豪雪で建物の傷みが激しく、昭和39年に本堂の正面を逆向きにし改築しました。現在は七面小路が裏にありその沿道は住宅が建てられ向かいの妙泰寺や全性寺が続き、昔、巡礼街道といわれた風情が残されています。
(妙泰寺)
(全性寺と巡礼街道)
≪蓮覚寺の墓所≫
〇加賀藩主3代前田利常生母の寿福院の実家である上木新兵衛家の歴代墓所がある。
(上木家の墓)
〇辰巳用水を開鑿した板屋兵四郞のものと伝わる墓があります。その墓碑名は、今読めませんが木屋と有ったそうで、お寺の大奥様の話では長い間お盆になると板谷さんと云うご夫婦が墓参にいらっしゃったとおっしゃっていました。
(板屋兵四郎の墓といわれる墓)
〇尾佐竹猛のお墓があります。猛は加賀藩の儒者の子として羽咋郡高浜で生まれ明治の法律家でしたが、判事に留まらず、憲政史や刑罰史など法制史の研究を手がけ、研究姿勢は、史料を重視した実証主義、洒脱な着眼点、談話調で達意な文章を特徴。一方で、大正13年(1924)に吉野作造・宮武外骨らとともに明治文化研究会を設立し、「明治文化全集」などを編集しました。
(尾佐竹猛の墓)
他に金沢の金城学園の創立者加藤せむのお墓があります。
(蓮覚寺の墓所・昔はもう少し山の方にあったとか・・・)
一寸残念だったのは、加賀万歳で謡われている「豆腐一丁蓮覚寺」の由来!?
参考資料:金沢古蹟志第12編巻33・50P・小立野の「史跡めぐり」の資料・蓮覚寺の前上人さんの奥様のレクチャーなど