【石引通り】
9月23日、小立野地区では、第38回「御山まつり」が盛大に開催され、初めてじっくり見物しました。このお祭りは、確か、地元で商売していた私の同級生達の石引商連青年部ら?が中心になり第1回が開催したと聞いています。以来38年間、殆ど寝るだけの地元だった私はゆっくり見物したこともなく、見たのは自宅の近くで休みの日、用達しのついでに見たぐらいでした。今年は、石引で開催されている金沢21世紀美術館の「東アジア文化都市2018・変容する家」もあり、初めてじっくり見物しました。
(石曳き)
(御山まつりと変容する家のポスター)
藩政初期、金沢城を築くいた時、お城の石垣の石を戸室山から田上の橋を渡り小立野に引き上げ亀坂を通り、お城へ運ぶ「大石曳き」の再現で約20人の上半身裸の曳き手が台上に載せた石を丸太で転がし、前を校下の子ども達が引っ張り、引台の後ろには、地元の子ども達の行列が続いていました。
(子ども達が頑張っていました)
ここで、いい機会なので、数年前、石引の由来を話したことがあり、石引の町名を調べたのを思い出し、話しただけで、記録としてまとめていなかったので、今日はその時に調べて内容を記すことにします。
加賀藩では、藩政初期以来、戸室山から金沢城まで約12kmの道のりを幕末まで石垣の石をダンプも重機も無い昔、おびただしい量の石を押したり曳いたりして運んでいます。
(昔ながらに丸太で転がしていました)
(戸室石は、約40万年前の火山活動で形成された「安山岩」で、18、000年前にがけが崩れて、今、見えるような山が形成されました。)
(金大病院前にアトラクション広場)
「石引」の町名ですが、石を金沢城まで運搬した道だから「石引通り」とか「石引町」といわれるようになったといいます。山で切り出される石は、戸室石(角閃石安山岩(かくせんせき・あんざんがん))といいますが、金沢城築城のため最初に切り出されたのは、今から421年前、天正20年(1593)、前田利家公の時代です。その後、市内大火の際等、城内再建の度に切り出して運搬も繰り返されました。
資料によると幕末まで、7期に分けて記録されています。はじめは大勢の住民が動員されて運ばれましたが、幕末頃になると二輪や四輪の地車といわれる引っ張る運搬車が使われて効率化されるようになっています。
現在、戸室山・キゴ山には、埋蔵されている石材は100万トンといわれています。金沢城に使用されている石は推定20万トン(約12万個)ですから、金沢城の規模であれば5つの城は出来ることになります。(20万トン÷12万個=1個約167kg)
のちに、山にも広い石引道(幅五間(9m))ができますが、初期のころは道が狭く多くの人が肩に担いで運び山を降り、田上では、橋ではなく土嚢を積んだところを渡り、野坂から小立野台に上げています。
参考ブログ
小立野の旧上野村③野坂・牛坂・大阪
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12371833175.html
上野から亀坂、石引を通って金沢城に至りました。その中でも小立野の亀坂は、石を引っ張るとき亀の歩みのようにゆっくりになったとか、谷は深く亀の甲羅を逆さまにしたような形だったとか、難所であったことが伝えられています。今も石引1丁目の端にある下馬地蔵は、石を運ぶ人々の平安無事を祈る祠だったと言われています。
そして石引の町名が文献に表れるのは、今から322年前の元禄9年(1696)です。最初の石引きの作業から約100年後。そのころに町名が定着したことになります。
実は、私が調べた限りでは、「石引」という町名は全国どこを探してもありません。尋ね歩いた分けではありませんが、地名辞典や町名の本それに地図やインターネットを検索すると、地名としては、四国の山の中など数ヶ所有るだけです。
全国には、城下町は江戸時代250以上もあり、お城は、ほとんどが「石垣」が用いられ、石伐り場から距離は遠い所も近い所もありますが、間違いなく石を引いて城を築いたのに、何故か石引という「町名」は他には見つかりません。ということは石引という町名は日本で一つ、大げさに言えば世界で一つという事になります。一人よがりですが、これは調べる価値があると無理やり思い込み、調べたわけです。
(厚い辞典を熱くなって繰り返し探しました。インターネットの郵便の住所もさがしましたが、石引という町名が見つかりません、日ごろする事が無い閑人ですからいい暇つぶしです。歴史家ではありませんが、それなりに資料を集めて仮説を立て、詰めて行きますが、結論は、私の勝手な推論で、少し怪しいかも知れませんが、中間報告をさせて頂きます。)
他の城下町での石の運搬について例では、大阪城の石は、瀬戸内海の島々にしか無かったということなのでしょうが、当時は陸より海の方が運び易かったのでしょう。金沢で陸路を運んだのは、やっぱりこの辺の人の力です。その力の根底にあるのは金沢の人の従順で勤勉さによるもの、という思いに至りました。人力で運んだ量は約12万個だといわれています。その長い道中については、安太(あのう)という、石垣造りのプロ集団の指導があってのことですが、実際に運ぶのは人力。人々にとっては命がけの重労働だった分けです。
それが、約100年も時間を経て、金沢の人々が、先人の労苦を讃(たたえ)えて名前を残して置こうと思ったのでしょう、「石引」という名を残したのではと・・・、私が知る限り、こんなことはどこにも書いてありませんので、歴史家ならこんな乱暴なことは書きませんが、素人ならではの苦し紛れの推測です。
この「石引」という町名は、私には、金沢の人々の“根性良し”の象徴のようにも思えます。また、考え方によっては従順で勤勉な金沢人に与えられた勲章のように思えます。
(外人も見物)
すみません。素人考えで、異論の有る人もいると思いますが、本当のことを、ご存知の方がいらっしゃいましたら教えて頂ければ有難く思います。
(石垣の面積は30,000㎡。1㎡当たり石4個で計算すると約12万個。明治なり崩れたのを入れると約15万個か?)
(露店の出て賑わっていました)
こんな話を聞いたことがあります。苦労の多かった田上から高い小立野へ上げずに、浅野川に沿い賢坂辻に運ばなかったのか、疑問に思っていたのですが、ある研究者によると、どうも今風に言うと「パフォーマンス」だったとか、わざわざ人の多い石引の通りを運び、市民に威勢とお殿様の権威を見せ付けるパレードだったのではないかといっています。一寸、眉唾ですが、見物人も書かれた昔の絵などを見るサモあらんと思います。