【柿木畠】
明治42年(1909)8月21日、10年ぶりに金沢を訪れた河東碧梧桐は町の彼方に見える医王山の峰々が靄(もや)っていた。金沢停車場に降り立ち、ひと雨来そうだなと思った。
齢若い書生が迎えに来ていた。開口一番、心に気にかけていたことを口にしていた。
「君、富女という俳人を知っているかい」
「俳句をなさる方ですか」彼は眼鏡を人差し指で持ち上げて訊ねた。
「ああ、竹村秋竹について俳句を学んでいた女性だよ。吾が恋は林檎の如く美しきの句をつくった人だ」・・・(同人誌桜坂「玉響の人」剣町柳一郎の楽譜帳より)
(明治の金沢停車場)
富女の俳句は、日常の観察の中かに見えるひとときの雅があり、近代と前近代が交差する明治日本を反映し、江戸の残照、西欧の香気を感じさせ、子規の写生論を実践していると評されています。また、それらの表層を覆いながらも、自己本来の眼差しの特質を静かに活かし続けたと「百万石の光彩 その闇」の筆者松井貴子氏が書いています。その眼差しの鋭さ、的確さが鈍り、強い心の動きが句から失われたとき、彼女は俳句を止めることを決めたのかも知れないとも書かれています。
それは初恋であろう竹村秋竹との恋に破れたことが、すべてで有ったと言っても過言ではないのではと推測されます。
(河東碧梧桐)
私が知る富女の俳句は、22歳当時の発句ですが、その中に金沢の能楽が潜んでいることが気付きます。泉鏡花は母が能楽の鼓の家の出でありので当然としても、当時、金沢では、庶民の中に謡曲が流行っていたのか、武家の出の母を持つとはいえ年端もいかない二十歳そこそこの娘が謡曲の素養があったのだと思うと、当時、寂れた金沢であっても文化度の高さが偲ばれます。
(兼六園)
短 夜 に 長 生 殿 の 酒 宴 哉
城 落 ち て 小 鹿 或 夜 月 の 啼 く
旅 僧 の 笠 に 露 あ り 朝 さ む し
いずれの句も謡曲から想を得た句だと思われます。子規が富女の美貌だけではなく「句材の豊かさと天性の俳想」に彼女の天才的な感性に驚いたのには納得です。
始めの句「短夜に長生殿の酒宴哉」は友人に誘われ兼六園の20年祭に行ったときの句で、生来、弱い体質で、賑やかな事を好まないのに、加えて、予想以上の人出に花火の音に圧倒され、人の少ないところを見つけしばらく休み、9時頃帰宅したと解説に書かれえいますが、生活が掛かっていたのか?後に良く芸妓が務まったものと思われます。
(兼六園)
他に子規好みの句や和歌的な素養を感じさせる句、西欧的な雰囲気を感じさせるもの、色の対比した句、遠近法を意識したものなど、絵画的構成もあり、わずか2年ばかりの発句活動でしたが、子規も評した「句材の豊かさと天性の俳想」が窺えます。
天 守 閣 高 く 若 葉 に 夕 焼 す
ト ン 子 ル を 出 れ ば 岨 の 若 葉 哉
白 き 石 に 黒 き 毛 虫 の 横に 這 ふ
昼 の 蚊 の 大 寺 ひ ろ く ゆ た り と ぶ
古 書 読 め ば 蚊 を 打 ち し 血 の 痕 黒 き
先日、ふと勝手に思ったことですが、正岡子規が唱える写生論は、見たものを頭の中で再構築して表現する方法で、現代アートのロシア出身でドイツやフランスで活躍した画家で美術評論家のカンディンスキーが、始めて抽象絵画を発見し表現した絵画の発想によく似ているような気がしてきました。
(カンディンスキー)
≪竹村秋竹≫
富女と俳句の先生で恋人であった竹村秋竹(本名修)(明治8年(1875)~大正4年(1915)12月27日享年41歳)は、松山市末広町生れ。河東碧梧桐とは伊予尋常中学校・三高共に同期生であったから、碧梧桐や虚子の影響で俳句をはじめたらしく、学制改革で金沢の四高に転校すると、彼の地で「北声(聲)会」が発足。彼はこの会発起人の一人で仮会主ででした。明治30年(1897)のことで、前年には、子規から「俊爽」と評せられ将来を期待されていたが、明治34年(1901)、子規には断りなしに「明治俳句」を発行、これは「日本」・「ほとゝぎす」の俳句から選抜されたものであり、子規も同じく「春夏秋冬」を編さん中であることから子規の不興を招き、秋竹は子規一門から問責され、一門をはなれ俳壇から遠ざかり、晩年は寂しいかぎりであった。
王城の石垣に鳴く蛙哉秋竹 (明27年刊「俳句二葉集」)
二百十日破蕉に風は無りけり 秋竹(明28年)
参考文献:「鑑賞女性俳句の世界」―第1巻女性俳句の出発― (株)角川学芸出版 2008・1・31発行他