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作庭記と兼六園②

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【兼六園】

すみません。暫く休んでいましたが、今回から何回になるか分かりませんが、日本最古の造園資料の写本「作庭記」(谷村庄平蔵)と兼六園の関係を少し調べてみる事にしました。作庭記の項目順に、原文と簡単な解説、そして兼六園との関係を記します。

 

 

 (石をたてん事、蓬莱島の亀頭)

 

作庭記とは:前回「作庭記と兼六園①」でも書きましたが、平安時代に書かれた日本最古の庭園書で、「作庭記」の名称は江戸時代中期に塙保己一の編纂した「群書類従」に収められて知られるようになりましたが、それ以前は「前栽秘抄」と呼ばれていました。まとまった作庭書としては世界最古のものと言われています。「作庭記」は寝殿造りの庭園に関して書かれたもので、その内容は意匠と施工法ですが図は全く無く、すべて文章で編者や編纂時期については諸説ありますが、書いたのは橘俊綱であるとする説が定説となっており11世紀後半に成立したものと見られています。永年、加賀藩(金沢)の前田家に所蔵されたもので、今は縁あって金沢の谷庄さんが所蔵されています。奥書に「正応第二(1289)」と書かれているそうです。

 

作庭記(原文)

1石をたてん事、まつ大旨をこころふへき也

石を立てるということは、石を立てるには違いないのですが、現在云うところの「造園」「庭師が庭を造る」という事で、石を立てる事とは即庭を造ることで、まずは大局を考え、概略のデザインを頭に描かねばならない。自らの心に従い、自ら尋ね歩き居場所を見つけ、立てようとする石や池の形に従い、自らが持っている山水の風情を思い廻らせ、ここしかないという場所に立てる。

 

 (赤線の内は兼六園・かっては屋敷とある竹澤御殿と蓮池御殿でした)

 

兼六園の“石をたてん事、まつ大旨を心得べき也”

ご存知のように、現在の兼六園は次々と藩主が継ぎ足していった庭園ですので、一連の地形を構想してデザインされたものではなく、最初から渾然一体でない事がわかります。しかし、後に現在の広さを得て、大局を考え概略のデザインが描いたように思われます。

 

 

(蓮池御殿の瓢池)

 

一、昔の上手の立置きたるの大要を心得たのは有様をと

して、家主の意趣を心に書けて、我風情を廻して、

立つへき也

(庭石の様子は、昔の名作、施主や庭を造る人の心が産み出す味わい

(感情的・情緒的)が渾然一体である。)

 

前田家草創期、2代利長公時代に京の庭師賢庭を金沢に招集し作庭につとめさせた話もあり、その先、一向一揆の時代には、今の北園(蓮池庭)にすでに蓮池があったらしく、当時の一向一揆の寺院の前濠を蓮池といっているところから、金沢御堂の庭であったことが窺え、一向宗の「九山八海」の作庭思想が生かされているように思われます。

 

 

(琵琶湖を模した霞ヶ池)

 

一、国々の名所を思いめぐらして、おもしろき所々、わが ものになして、おおすがた、そのところになずたえて、やわらげたつへき也

(名所旧跡の姿形、その面白さを自分のものとした上で、それらをモデルにしますが、「和らげて」立てよ、面白さを強調して突きつめて立てるのではなく、やわらげて、言わば心の形に仕上げてから立てる。)

 

  

   (白竜湍の黄門橋)

 

兼六園の白竜湍(はくりゅうたん)に架かる黄門橋は、3代利常公、5代綱紀公時代に、手取峡谷に架かる橋黄門(中納言)橋を模して作ったといわれていて、藩政期は能楽の「石橋(唐土清涼山の石橋)」を模したものとされた縮景で、他に名所旧跡の姿形としては、縮景には「杜若(かきつばた)」「徽軫灯篭(ことじとうろう)」などがあり有名なところでは、琵琶湖を模した“霞ヶ池”には、「竹生島」「親不知」は面白さを強調して立てるのではなく、当時の作庭者の心に写る形に仕上げらているように思われます。

 

 

 (社若・かきつばた)

 

2殿舎をつくるとき、その荘厳のために、山をつきし、これも祇園図経にみたり。池をほり石をたてん所には、先地形をみたてて、たよりにしたがいて、池のすがたをほり、島々をつくり、池へいる水落ならひに池のしりをいだすへき方角を、さたむへき也。南庭ををく事は、階陰の外のはしらより、池の汀にいたるまで六七丈18m~21m)、若内裏儀式ならば、八九丈24m~27m)にもおようへし。拝礼事用意あるへきゆえ也。但一町の家の南面に、いけをほらんに、庭を八九丈をかは、池の心いくはくならざん歟。よくよく用意あるへし。堂社なとには四五丈も難あるべからず。

殿舎を造るに当たって、建物と山と池との関係を述べたもので、祇園図経:東洋における記事で、インドの作庭が書かれているが、後世の擬作か?階陰:寝殿正面の階上に出した庇か。内裏儀式:内裏の儀式用の南庭。

 

(兼六園の揮毫・蓮池庭と一体化するまで、兼六園は呼ばれていなかった)

(竹澤御殿と塀で区切られた蓮池庭時代の絵図)

(竹澤御殿は8年かけて壊された)

 

 兼六園の“殿舎を作るとき、その荘厳のために・・・”

現在の兼六園(竹澤御殿なき庭園と蓮池庭)は、庭園として作庭したものではなく、本来の作庭記のよる寝殿つくりの庭園と違います。当時は現在の霞ヶ池の真ん中まで竹澤御殿があり、霞ヶ池も前庭が狭いが、その大きな御殿は、それを修飾するための山、池水を作ってあり、今の蓬莱島が半島で築山になっていました。13代斉泰公により殿舎を壊され、今の霞ヶ池を掘り拡げ島にします。掘り出した土を積み上げ栄螺山(さざえやま)を作りました。

 

(つづく)

 

参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所   兼六園観光協会 昭和5112月発行

 


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