【兼六町】
平安時代、京都では庭園に「阿弥陀信仰」による浄土の世界を写すことが流行ります。浄土とは仏様の住むところで、西方浄土 (極楽浄土) のいう極楽往生のことで、庭としては浄土曼荼羅を具現化したものです。理想境としての池泉を大きくうがち、蓮を植え,八功徳水(はっこうとくすい)を湛える清浄香潔な景色を中心に構成されます。治安2年(1022)に藤原道長は前代未聞の浄土世界を忠実に再現した寺院を建立します。
(兼六園瓢池)
九山八海
九山八海とは須弥山を軸にこの世のはずれである鉄囲山に接する南瞻部州(なんせいんぶしゅう)の大海までの間に九つの山と、その間に形成される八つの海をいうもので、庭に島々を浮かべ、平庭に立石や築山をあげて九山八海を具現し観賞者へ仏理を教えます。
(二俣の本泉寺の九山八海)
加賀藩は藩政期以前、一向宗徒による治政時代があり、今の兼六園瓢池辺りが蓮池と呼ばれていたらしい、蓮池と云うのは一向宗の寺院の前濠のことで、その頃には、この辺りに九山八海の庭があっても決して不思議ではないと思われます。二俣の本泉寺には、今も蓮如上人が作庭されたと言われる「九山八海の庭」があります。
(本泉寺山門)
神仙三島・五島
仏教伝来は、わが国の思想形成に大きく影響を及ぼしたのは、中国大陸の神仙思想でした。神仙三島とは,中国の三神山すなわち蓬莱(ほうらい)・瀛州(えんしゅう)・方丈(ほうじょう)の三山で、また大海に浮かぶ神仙すなわち仙人が住む三島を意味します。庭園では九山八海と共に池泉の中島や枯山水庭の石組、平庭の築山などは暗示的です。神正五島とは三島に、「岱与(たいよ)員きょう(いんきょう)二島を加えたものです。有名な竜安寺石庭は比喩的だと言われています。兼六園の瓢池は、蓬莱・瀛州・方丈の三島が構築されているそうです。
(兼六園の瓢池)
鶴亀庭
中国道教思想に基づき、不老長寿を願い、慶祝を表すもので、鶴、亀に見立てたもの(島等)を造くったもので、兼六園では、亀頭を模した石柱がある亀甲島(蓬莱島)と鶴を模した唐崎の松があります。その他にも亀石や鶴を模した植栽があります。
(蓬莱島の亀頭石)
(瓢池のえん州島の亀石)
滝と竜門瀑
日本では美しい自然風土は、多雨な気候とも関係し,大小の河川や渓谷美をつくり、そこに滝や沢をつくりました。庭の滝は大きな鏡石と呼ばれる据石を中心に組まれ,滝は不動明王の居処として、不動石が組まれ、天端(てんぱ)には庭全体の主人としての観音石を据えたそうです。古くから滝石組は,音羽の滝,那智の滝,日光華厳滝,奥州厳美渓などが手本となっています。兼六園の「翠滝」は、七瀬滝と呼ばれていたものを、11代治脩公が安永3年(1774)に改修工事を行っています。
(瓢池の翠滝)
廻遊式庭園・林泉庭
幕藩体制の確立とともに大名時代には、その財力を傾けた廻遊式庭園が現れます。江戸には大名の上・中・下の各屋敷には書院の裏の庭として大庭園が営まれ、それぞれの国表の有る城下町にも庭が次々と庭園が出来ました。ある所では明るい解放的な池泉庭とし,またあるところで幽邃(ゆうすい)な深山の景をつくったりしました。これなどは自然を凝縮した林泉庭といいます。前田家の江戸表の庭園は、家康から利常公が拝領した辰口新殿、本郷の育徳園、根岸の冨有園などがありました。
(兼六園の霞ヶ池)
大名庭園
大名が作庭したものの多くが廻遊式庭園ですが,そのはじまりは,織田信長が安土城または岐阜城の御殿の周囲に作庭したことにより、豊臣秀吉が聚楽・伏見両城に風雅を楽しむための一画「山里曲輪」を築いて、茶の湯を楽しんだことで流行を生みます、徳川家康は山里曲輪として西の丸をつくり、後に吹上へと徳川家光が築きあげたのです。これら城と関わりがありますが大名の中には,元和偃武により城の改修ができなくなりましたので、庭づくりと称し,山里曲輪的な築城したものが多くなります。岡山後楽園・金沢兼六園・水戸偕楽園をはじめ、城に隣接して形成された廻遊式庭園がこれです。このような庭園
を城郭庭園といいます。
(兼六園の雪吊り)
縮景庭
廻遊式林泉庭の多くが、その思いを自然に求めていますが、手本となる風景がある場合、凝縮して作庭しました。多くが壮大な庭ですので,中国の浙江省の西湖、湖南省洞庭湖にその手本を求めましたが,わが国の名勝である松島,天の橋立及び東海道と富士山なども多く,京では近江八景・瀬戸内の景などにも求められました。兼六園霞ヶ池の、新潟の親不知や滋賀の琵琶湖、それに謡曲の杜若や石橋などが縮景と言われています。
露地
戦国乱世から天下統一に進むにつれ織田信長は配下の武将へ、合戦の論功行賞を与えていましたが、その基盤となった土地が足りなくなり、信長は土地に代わり刀剣、茶器、家紋や姓氏などを与えます。その中でも単なる茶碗として片づけられない茶陶が一国の封地に相当する価値を生じさせていくもので、いわゆる名物です。こうして茶の湯は、武将間に流行し信長、秀吉の配下には出身が商人でありながら茶道の指南役の千利休らを大名格に取り立てます。利休は「侘茶」「さび茶」を説き、その教えは小堀遠州ら武士との関わりは、山里曲輪を出現させ、廻遊庭の中に茶亭、四阿(あずまや)を造らせます。また、喫茶のための茶亭とそれに付属する踏石、蹲踞(手水鉢)からなる茶庭としての露地が利休によってあみ出されました。兼六園には、藩政期から現存する露地は瓢池の夕顔亭があります。
(夕顔亭)
参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務局.兼六園観光協会 昭和51年12月31日発行