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作庭記と兼六園③

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【兼六園】

作庭記では、もっとも重視された四神相応観が庭作りの上でも重要視されていて、さらに陰陽五行説に基づく理論化が窺えます。また王朝の住宅建築様式の寝殿造りを前提とした説明がなされていて、その内容は、前半において立石の概要に始まり、島・池・河などの様々について論じ、滝を立てる次第、遣水の次第が詳述されています。

 

(真弓坂の石)

 

3、池と寝殿と橋

《原文》また島ををくことは、所のありさまにしたかひ、池寛狭によるへし、但しかるへいき所ならは、法として島のさきを寝殿のなかはにあてて、うしろの楽屋あらしめんこと、よういあるへし。楽屋は七八丈にをうよふ事なはれは、島はかまへて、ひろくおかまはほそけれと、池によるへきことなれは、ひきさはりたる島なとをきて、かりいたしきを、しきつつくへきなり。かりにいたしきをしくことは、島のせはきゆへなり。いかにも楽屋のまえに、島のおほくみゆへき也。しかれはそのところををきて、ふそくのところに、かりいたしきをはしくへきとそ、うけたまはりおきて侍る。

 

(霞ヶ池の蓬莱島)

 

(島を置くには、池の広さ狭さによるべきで、庭の性格や用途によっては、島の端を寝殿の中央にあたるように配置し、島の後部に楽屋をつくるのが決まりで、楽屋は七八丈にのなるから、島を初めから広くして置きたいが、結局池の大きさによることだから、時には中央の島から後方へ引きさがって別の島などを置き、仮板敷を敷き続けるようにする。そこで島の前方は普通にとって、楽屋として不足の部分に仮板敷を敷くのだと聞いています。)

 

《原文》又そりはしのした晴の方よりみえたるは、よにわろき事なり。しかれは橋のしたには、大なる石をあまたたつるなり。又島より橋をわたすこと、正しく橋かくしの間の中心にあつへからす。すちかへて橋の東の柱を、橋かくしの西の柱に、あつへきなり。

 

(瓢池の鶴を模した島(方丈?)と水亭)

 

(反り橋の下が、晴の方?から見えてしまうというのは、もっと悪いことで、そこで、橋の下方に大きな石を数多く立てます。また島から橋を渡すには、正確に橋隠しの中心を避けるようにします。すじかうようのして、橋の東の柱を橋隠しの西の柱にあたるべきです。)

 

《原文》又山をつき野すちをくことは、地形により、池のすかたにしたかふへきなり。又透渡殿のはしらをは、みしかくきりなして、いかめしくおほきなる山石のかとあるを、たてしむへきなり。又釣殿様の柱に、おほきなる石を、すゑしむへし。

 

(瓢池の亀頭がいくつも見えます)

(瓢池の島にある亀の石)

 

(山とか野すじを置くのは、地形により、池の姿に従うのである。また透渡殿の柱も短くしきるのは、どっしりとした大きな出石の角ばったものを立て、また釣殿の柱にも大きな石を据えるのがよい。)

 

(透渡殿)

 

透渡殿(寝殿造りで、寝殿と対屋(たいのや)とをつなぐ、両側に壁のない渡り廊下。透廊(すいろう・すきろう) 

釣殿(寝殿造りで、池に面して東西に設けられた建物で東釣り殿・西釣り殿と呼ぶが一方を省略したものが多い)

 

兼六園では

残念ながら現在の兼六園には、寝殿はありませんが、池も橋もあり、勿論島は有りますので、島について述べると、島は池の広さ狭さ(寛狭)によって決めるとありますが、兼六園霞ヶ池では蓬莱島が一つありますが、池の大きさ広さからみて少ないように思えます。また、旧蓮池庭の瓢池は、2つの島に見えますが、実際は3つで、前々回「兼六園・・・神仙三島五島」で述べたように、中国大陸の神仙思想で、中国の三神山蓬莱(ほうらい)・瀛州(えんしゅう)・方丈(ほうじょう)の三山があり、石で造られた亀も模されています。また大海に浮かぶ神仙(仙人)が住む三島を意味します。三神仙島を築いたのは蓮池庭の作庭者5代藩主綱紀公で、また、13代藩主斉泰公も霞ヶ池に蓬莱島を浮かばせています。

 

 

(瓢池)

 

中国,渤海にあったという伝説上の神山、蓬萊・瀛洲・方丈を指し、海に浮かび15匹の大亀にささえられていたらしく、仙人たちが住み不老不死の薬があるという。先秦時代、渤海沿岸の燕国や斉国の神仙の術を行う人たちが唱え、秦の始皇帝や漢の武帝らの心をつかんだといわれています。文献には、華麗な御殿のたつ仙郷をあるが、実は蜃気楼の発生と関係するらしい。歴代の宮中の池や上元節の山車(だし)等に三神山が作られたそうです。

 

曲水が霞ヶ池にはいる虹橋(徽軫灯籠脇)と、瓢池日暮橋が当てはまります。虹橋では琴の筋を表す小滝と虹橋の間には、石を配され、また、日暮橋の周りには亀の頭を模した石が配されています。

 

(日暮橋)

(能久平氏の木船亭のあったところ)

 

野筋と言うのは、なだらかな丘陵で、どんな平庭でも少しはあります。兼六園の野筋の場所は、虎石の南池畔でそこから譲葉に行く辺りにあり、かっては能久氏の別荘が建っていて、家の池畔のせり出し、大きい岩石の家の柱を持たしていたそうです。今は能久邸はないが池畔より噴水に至る所に野筋があり、ここがこの項に合致しているとされています。

 

能久平氏は、明治の名士で、兼六園に木船亭をつくり、伊藤博文や乃木大将、高橋是清などを招く。)

 

(つづく)

 

参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所  兼六園観光協会 昭和5112月発行「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房 200612月発行


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