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作庭記と兼六園⑤

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【兼六園】

6、立石様(大海の様式)      

《原文》大海のやう 大河のやう 山河のやう 沼地のやう 葦手のやう等なり

一、大海様は、先あらいそのありさまを、たつべきなり。そのあらいそハ、きしのほとりにはしたなくさきいでたる石どもをたてて、みぎハをとこねになして、たちいでたる石、あまたおきざまへたてわたして、はなれいでたる石も、せうせうあるべし。これハミな浪のきびしくかくるところにて、あらひいだせるすがたなるべし。さて所々に洲崎白はまみえわたりて、松などあらしむべきなり。

 

 

 (徽軫灯籠上辺り)

 

(訳:大海の様式、大河の様式、山河の様式、沼地の様式、蘆手の様式等です。一、大海の様式は、先ず荒磯の様に立てるべきです。荒磯は、岸のほとりには不恰好に尖った幾つかの石を立て、汀を床根として立ち出た石を、数多沖の方へ立てつづけて、その他に離れ出た石も少々あるのがよい。これはみな浪の厳しい所で石の洗い出した姿で、所々にずっと洲崎や白浜を見せて、松などを植えるべきです。)

 

 

 (徽軫灯籠辺り)

 

兼六園では

曲水が終り霞ヶ池の注ぐところ、丁度、徽軫灯籠(ことじとうろう)辺りがこのように出来ています。荒磯のように現し、尖ったゴツゴツとした石が並び、あたかも越前の東尋坊のような、一寸大げさですね?いずれにしろその様な石組みがあります。また、見ようによっては、親不知のところもその様に見えます。

 

7、立石様(大河の様、山河の様)

《原文》一、大河のやうは、そのすがた竜蚫のゆけるみちのごとくなるべし。先方をたつることは、まづ水のまがれるところをハじめとして、おも石のかどあるを一たてて、その石のこはんを、かぎりとすべし。口伝アリ。

その次々をたてくだすべき事。水ハむかう方をつくすものなれバ、山も洋もたもつ事なし。その石にあたりぬる水ハ、そのところよりおれ、もしハたわミて、つよくいけば、そのすゑをおもハヘて、又石をたつべきなり。そのすゑずゑこのこころをえて、次第に風情をかへつつたてくだすべし。石をたてん所々の遠近多少、ところのありさまにしたがひ、当時の意楽によるべし。水ハ左右つまりて、ほそくおちくだるところハ、はやけれバ、すこしきひろまりになりて、水のゆきよハる所に、白洲をバをくなり。中石はしかのごときなるところにをくべし。いかにも、中石あらハれぬれバ、その石のしもざまに、洲をバおくなるべし。

 

(訳:一大河の様式は、その姿が竜蛇の行く道の様になるのである。先ず石を立てるには水の曲折した所を初めとして、主石の角のあるのを一に立て、その石の要求を限度とすると口伝があります。その次々に石を立て行く。水は向う方の土地を崩すものであるから、山も岸も保てないので、その石にあたった水はそこから折れ、また、たわんでつよく行くから、その末を考えて、また、石を立てるべきです。その末々は、この要領をのみこんで、次第に風情を変えながら立てます。石を立てる所の遠近や場所の様子に従って、その時々の趣向により水は左右の岸がせまり、細く落ちるのが早くなるので、少し広くして水の行きが弱まる所に白州(白い砂か小石)を置きます。中石はそのような所に置くとよい。勿論中石があらわれたならば、その石の下の方に白洲を置きます。)

 

 

 (徽軫灯籠辺り)

 

兼六園では

虹橋の下、辺りにある副石は、流水以上に地面を侵食しないよう座っています。曲水が著しく曲がって霞ヶ池には入るところが丁度それを現しています。石が水の流れに抵抗しています。これ以上水が突き当たらないように求めている石で、その後、幾つか石を繰り返仕立てると水はたわみ、やがてその姿が風情になる、この辺りがこの項に当たるところか?

 

 

(山崎山の曲水の取り入れ口)

 

《原文》一、山河様ハ、石をしげくたてくだして、ここかしこにたひ石あるべし。又水の中に石をたてて、左右へ水をわかちつれバ、その左右のみぎハには、ほりしづめた石をあらしむべし。

 已上両河のやうは、やりみづにもちゐるべ

(訳:一、山河の様式は、石を数多く立て、ここかしこに伝い石があるのである。又水中に石を立て、左右へ水を分けたならば、その左右の汀には、掘り沈めた石を据えるべきです。以下の両河の様式は、遣水にも用いらるべきものです。遣水にも、一つを車一両に積みわずらう程の大きさの石がよいとされています。)

 

 

 

兼六園では

山河の様式では、水中にある放置された石でも水分け石伝え石の様に、役目を持った石もあります。水分け石は、山崎山の下七福神山の川幅の広い曲水にあり水を川幅いっぱいに拡げるためのものです。また、伝え石は、かって瓢池親不知に存在したらしく、瓢池では、海石塔下より向こう岸の傘下に渡るところの今も有りますが堰石がもっと幅が広く人が伝え渡ったらしく、もう一つ夕顔亭竹根石の前辺りから瓢池の池中の飛び石を伝わって翠滝の麓へ行けたと聞いています。

 

(傘下に繫がる堰石(せきいし))

(夕顔亭竹根石より翠滝へ飛び石があった)

 

(梅林や時雨亭の作庭記を模した河の石組)

(梅林の州浜を模した遣水)

 

平成に造成した梅林時雨亭の遣水には、水分け石伝え石を模した石や州浜を現す川石を配しています。

 

(つづく)

 

参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所  兼六園観光協会 昭和5112月発行「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房 200612月発行


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