【錦町・旭町→小立野1・2丁目】
明治10年(1877)から終戦直後(1945)まで現在の小立野1・2丁目の周辺に陸軍上野射撃場や大正8年(1919)開校の金沢高等工業学校(後に金沢工業専門学校・金沢大学理工学域(工学部)の前身)があるほかは、田畑が広がるのどかな農村地帯でした。旧上野射撃場跡は、終戦後は農地に、さらに昭和30年代(1955~)に区画整理が行われ、大規模な住宅地が造成されます。金沢大学理工学域の角間移転に伴い、その跡地に石川県立図書館と金沢美術工芸大学の移転が決まり、現在は空き地になっています。
(旧金大工学部正門前)
幕末、野坂の下り口上野新村地内に、東西100間(約183m)、南北115間(約210m)に加賀藩上野弾薬所と東側傾斜地に弾薬試験場があり、明治10年(1877)上野新村(現小立野1・2丁目)・牛首村(現錦町)・牛坂村(現旭町)に跨る地が陸軍省所轄地になり、日本陸軍金沢第7連隊の演習場として使用され陸軍上野練兵場が造られます。
(大正10年金沢市街図の部分を加工・玉川近世史料館蔵)
上野射撃場は、一番山から三番山まであり、高さは約5~6mか?
明治31年(1898)第9師団設立後にその練兵場が上野射撃場なり、その一帯東西3町20間(約370m)、南北5町25間(約590m)、面積約42千坪(約13,8ha)と広大なものだったそうです。
(今の1丁目の小立野児童公園にある明治天皇御野立所跡)
(現在、小立野1丁目の上野児童公園の樹林の中に記念碑があり「明治天皇御野立所跡」と刻まれています。この地は明治11年(1878)、明治天皇が北陸巡幸で金沢を訪れ、当地で歩兵第7連隊を閲兵された記念に、51年後、昭和4年(1929)帝国在郷軍人会金沢市第三分会によって建てられたもので、当時は、今の公園の中央付近にあり、自然石を高く積み上げ、その上に石碑が建っていましたが、戦後、区画整理で公園にしたとき、積み石がゆるんで危険だったころから、積み石を1個残らず碑の周辺の配置し、碑は現在地に移築したそうです。)
昭和11年(1936)4月1日、三馬村・小坂村と共に崎浦村は金沢市に編入され、崎浦地区の10ヶ村がそれぞれ金沢市に編入されます。上野新村は上野本町、涌波村は涌波町、笠舞村は笠舞町、大桑村は大桑町、三口新村は三口新町、土清水村は土清水町、舘村は舘町、舘山村(舘村の出村)は舘山町、牛坂村は旭町、田井村は田井町、牛首村は錦町、山崎地方は長谷川町になり、崎浦村は消滅します。現在は崎浦公民館や金沢農協の崎浦支店など、幾つかがその名を残しています。
(今の金沢市農協崎浦支店)
(崎浦公民館)
(崎浦村が金沢に編入された当時は、まだまだ見渡す限り田圃や畠が続く、のどかな農村地帯の風情はのこしていましたが、戦後、昭和30年以降は、宅地造成や道路の建設と開発で地区の人口が段階的に増加し、名実ともに町化が進みます。)
(今の2丁目案内板・緑色は元上野射撃場の一部)
(右、宮本硝子建材より先が上野射撃場)
昭和20年(1945)8月15日、第2次世界大戦が終結し、軍隊は解体されます。21年(1946)には、国有地として財務局が管理されます。以後、上野射撃場は農耕地として払い下げられ、旧軍人により開拓団が結成され、12戸が入植し、2万5000坪を開拓して野菜、芋、ぶどう類を栽培します。昭和35年頃からは上野射撃場跡に新たに住宅地が開発され菫町、小立野台町、森丘町、森丘下町が生まれます。
(今の森丘上町町会案内板・旧町名は町会名として残っている)
昭和35年(1960)上野本町第一土地区画整理組合が設立され2万坪が整理され菫町が、翌36年(1961)第2土地区画整理組合が5万坪の地を整理し小立野台町が誕生します。同年第三土地区画整理組合が2万坪(元上野射撃場)の地を整理し森丘町を、同年第四土地区画整理組合により6万坪が整理されました。
(1丁目小立野児童公園横の用水)
しかし、昭和39年(1964)4月金沢市の住居表示条例により、上野本町、菫町、小立野台町、森丘町、森丘下町は小立野1・2・3丁目となり、現在、上野本町は一区画だけが残っています。
今後は、金沢大学工学部の移転に伴い跡地に石川県立図書館と金沢美術工芸大学の移転し、道路も整備されると、ますます人口が増加し、さらなに大きな町へと変貌することが想像されます。
(左旭坂上・右この手前辺りに上野射撃場の二番山が有ったらしい・・・)
参考文献:「金澤古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行・「さきうら」過去・現在・そして未来へ 高田慈久 金沢市崎浦公民館 平成14年発行