【金沢・長岡・奥羽各地】
慶応4年(1868)正月3日、鳥羽・伏見で戊辰戦争の戦端が開かれます。兵力の火力も徳川方が上回っていたが、徳川方の火薬庫に朝廷方の砲弾があたり、大爆発し、驚いた徳川方は敗走がはじまります。
戦いが始まったという報を受けた加賀藩主前田慶寧公は、正月6日徳川方に味方するため、直ちに出兵しますが、越前に差掛かった頃、徳川方の敗走の報が入り、すでに徳川を朝敵とする勅が出ていることを知ります。
慌てた加賀藩は、越前坂井郡長崎まで進軍していた兵を呼び戻し、加賀藩を朝廷方につくことを急遽表明します。「錦の御旗」が北陸道を進むと、加賀藩は遅れを挽回するため、進軍の先鋒を務めることを申し出ますが拒否されてしまいます。それは、元治の禁門の変の時も前年の慶応3年(1867)の王政復古に際しても、京を引き払い国許に戻り信用出来ないということに尽きます。
朝廷軍は加賀藩がつけば渡りに船ということもあり加賀藩を許されますが、足元をみられ、貨幣や爆薬、米などの食料など大量の軍需物資の献納をすることになり、4月になると加賀藩にも出兵の命令が下り、小川仙之助隊と箕輪知太夫隊が送り出されます。また、七尾の軍艦所から「梅鉢海軍」が需要物資と兵の輸送に駆り出されます。
慶応4年(1868)4月15日、新政府軍から加賀藩に北越戦線に出動を命令が出て、千田文次郎登文は加賀藩兵として小川隊の伍長となり、越後高田に出陣します。この時の金沢藩の兵は1500人、北陸13藩で最大の軍勢で、他は薩摩藩約740人、長州藩約570人、長府藩約200人、富山藩440人、高田藩約380人で、全軍の指揮は薩摩の黒田清隆と長州の山県有朋でした。
新政府軍の先鋒は加賀藩兵、奥羽越列藩同盟軍側は桑名藩兵。実戦経験豊富な桑名藩の猛射撃で金沢藩兵は持ち堪えられず、6人の戦死者を出しいったん撤退します。その後、柏崎まで進出します。加賀藩は、慶応4年(1868)5月19日になると、長岡近郊の信濃川の中洲に砲台を設置して長岡城を砲撃して城の奪取に成功しました。
同盟軍は、6月8日長岡城奪回に、栃尾にいた会津藩、村松藩などの藩兵が三方より森立峠の新政府軍を襲います。これを守備したのは加賀藩の小川隊で、大激戦になり、第一台場(陣地)は奪われ、この時、登文の姉婿澤田百三郎(30歳)が戦死。この日の戦いで飯田藩1人、加賀藩5人、高田藩1人の計7人の戦死者を出し、激戦が続き小川隊100人のうち、戦闘の堪えうる者は18人になります。
最終的には北越戦争に出た加賀藩兵は7,793人にのぼり、これは戊辰戦争で戦った各藩で最大の人員で、千田登文の履歴書では北越戦争における加賀藩の戦死者は103人、戦傷者は226人としています。
(三百藩戊辰戦争事典では、戦死95人、戦傷173人)
明治元年(1868)12月、藩主は諸士に戦功を賞せられます。酒肴と賞状等金子を拝受。登文は40両(当時の1両が今の3万円として120万円か?)を拝領しています。明治2年(1869)、朝廷の命令で選抜隊を組織して上京することになり、登文は伍長として上京することになります。希望者がおおかったが、自分が選抜されたことに、登文は大いに喜んだそうです。
(慶応4年7月、江戸は東京に改められ、明治天皇はいったん東京へ行幸し、12月の京都に戻り、明治2年(1867)3月に東京にもどり江戸城(皇居)に住む事になります。)
参考文献:「西郷隆盛の首を発見した男」大野敏明著 株式会社文芸春秋 平成26年2月
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