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千田文次郎登文と明治維新

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【金沢・名古屋・東京】

明治新政府は、明治2年(18696月、「版籍奉還」では土地と人民を天皇にお返しします。加賀藩では、城を新政府に明け渡し、藩庁を加賀八家の長邸に設置され、藩主は藩知事となり城を出て本多邸に仮住まい、武器などは新政府のものとなり、城内には士官生徒を養成する斉勇館が設置されます。

 

 (金沢城石川門)

 

明治4年(187110月の「廃藩置県」では、これまでの藩は消滅し、藩知事は東京に去り、その為、加賀藩が所有していた歩砲兵隊は解体され、新たに設置された金沢県の県下隊が組織され、千田登文は軍曹に、今の西別院(浄土真宗本願寺派)の屯所に勤務し、任務の市内のパトロールにあたりますが、この仕事を好まず、陸軍の教導団の募集に応募し合格します。当時、東京の教導団は陸軍の下士官になることを目的で、その時、千田文次郎登文(以下登文)は24歳でした。

(翌年、金沢県が石川県になります。)

 

(明治の金沢城年表)

(藩政期からある鶴丸倉庫・陸軍で倉庫として使用)

 

教導団の合格者は、陸軍軍曹心得を申し付けられ、登文は名古屋城の屯所に召集され、第3分営(後の名古屋の第3師団)の6番大隊(後の名古屋の歩兵第6聯隊)に配属されます。その隊の小隊長2人は旧加賀の藩士で、この部隊は旧加賀藩士が中心で、明治6年(18739月に名古屋の歩兵6聯隊になり、やがて金沢には名古屋鎮台金沢分営が置かれ、明治8年(1875)に歩兵第7聯隊となります。城は兵舎として使える建物以外は次々撤去されます。この短い間に千田登文は、軍曹心得、4等軍曹、2等軍曹と昇進します。

 

(余談:明治14(1881)19日、金沢城はラッパ長ら2人の兵士が夜中に酒を持ち込み、防寒用火鉢で、サカナを焼いて酩酊、火の始末を誤って出火。200数十年にわたって加賀藩が財力と建築技術を注ぎ込んだ城の大半が、兵隊の「酒のさかな」のため炎となって、一夜にして消滅しました。)

 

 (二の丸跡・陸軍では司令部跡)

(明治31年建設の司令部・現在成巽閣前に移転復元)

 

明治7年(18747月には曹長に、10月には少尉試補(見習士官)になり27歳で登文は将校を拝命。明治8年(18758月には、歩兵第7聯隊の旗手を任命され、9月には青山御所において聯隊旗を拝受します。明治9年(18764月には少尉に任ぜられ、6月には正八位の叙せられます。

 

(江戸時代は1万石以上の藩主・家老などが叙位され、一般の武士には叙位は無縁でしたが、明治になり、天皇の軍人である自覚を持たせるための制度で、天皇が位階を授けることです。)

 

(金沢城内に残る明治に造られた軍の施設)

 

廃藩置県では、公地公民が実現し、土地と人民による税収が中央政府に集中し中央集権国家になります。さらに明治6年(1873)には徴兵令も布かれ、軍事を独占していた武士の特権が奪われ、武士は自身の存在すら脅かされ、さらに明治9年(1878)ついに廃刀令が発せられと武士のプライドの拠りどころまで失います。

 

さらに新政府は最後の俸禄を打ち切り、明治9年(1878)秩禄処分も最終段階で金禄公債となり、公債という形で退職金を支給します。これまでの米や現金で支給されていたのが、公債で支給を受けた士族はその日の生活にこまり、受け入れたばかりの公債をすぐに金に換えたことにより、公債相場が暴落し、二束三文でたたかれ、士族の困窮がさらに深まります。

 

明治維新は武士階級が幕府を倒し、新しい近代国家を建設する出発点となったが、その武士階級がもっとも困窮するという世界史上でもまれに見る皮肉な結果となります。また、幕末の倒幕運動は、尊皇攘夷を大義名分としたが、幕府が倒れ、維新が実現すると、新政府は攘夷の考えを弊履のごとく切り捨て、幕府の開国政策を継承、急激な欧米化に舵を切り、攘夷を唱えた士族は驚くとともに、新政府に強い不快感と裏切られたという思いが募ります。

 

 

   (西郷隆盛)

 

明治2年(1869)の長州奇兵隊の反乱の一因はそこにあり、こうした不満が明治7年(1874)の佐賀の乱、明治9年(1876)の熊本神風連の乱、萩の乱、そして秋月の乱の原因となったことはいなめない。そしてついに西南戦争の火ぶたがきられました。

 

 

参考文献:「西郷隆盛の首を発見した男」大野敏明著 株式会社文芸春秋 平成262

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