【長町・旧御仲間町・旧小立野与力町】
私のブログは泥縄式です。先日、小説「西郷の首」を読み、関連図書を調べていて金沢の大戸宏著の金沢小説小品集Ⅱ「長町のひるさがり―南州翁の首―」に辿りつきました。この小品集は18篇の地元を題材にした短篇小説で、知ってる地名や聞いた話しもあり、ついつい面白くなって読み込んでしまいました。今回もブログは行き当たりバッタリになります。
(長町ひるさがり)
短篇小説の中の―県庁のご紋章―は、前から興味を持ち調べています明治2年(1869)8月7日に起こった金沢藩の執政本多政均の暗殺事件とそれに関わる明治の忠臣蔵といわれた“本多家中の仇討”で、その仇討に巻き込まれてしまった被害者の妻と息子の物語です。私が今まで調べた範囲では、あまり聞いた事のないお話で、事実がフィクションかは定かではありませんが、悲惨な話ですが、終わりは心が温まる話になっています。
(西郷の首)
悪いこと、良いことは絡みあい、悪いときは気を落とさず待てば良いことも・・・・?
≪加賀の忠臣蔵とは≫
本多政均は、明治2年(1869)8月7日金沢城二ノ丸御殿で、白昼堂々、登城してきた政均に不満を持っていた与力山辺沖太郎、井口義平により暗殺されます。事件後、実行犯は切腹になりますが、本多家の家臣達は共犯者の処分が軽いことに激怒し、仇討ちを誓います。はじめは100人以上の家臣が・・・、月日が経過するうちに15人に減ります。明治4年(1871)12人が共犯者3人の仇討ちを果たし、翌明治5年(1872)に切腹を命じられます。その後、明治政府は仇討禁止令を出し、そのため、この仇討は加賀の忠臣蔵とか日本最後の仇討とも言われています。
(石川門)
(この事件を題材に作家の松本清張の「明治金沢事件」や中村彰彦の「明治忠臣蔵」そして郷土の作家杉森久英や戸部新十郎も著作があります。「石川県史」や「加能郷土辞彙」に“本多家臣の復讐”“本多政均”“本多政均の暗殺”などの項目があり、いずれよく調べてブログに書きたいと思っています。)
(加賀本多博物館)
≪あらすじ≫
この物語は、元本多家の家臣12人が、5人の共犯者の刑が軽いと激怒し仇討をする話ですが、本多政均が金沢城で暗殺されて2年3ヶ月。明治4年11月23日、標的にされた一人菅野輔吉(すがのほきち)は3年間小立野与力町の自宅で禁固中の出来事でした。
巻き添えを食ったのは、仁兵衛(56歳)といい、菅野輔吉の世話で、金沢県庁の小役人(小使)に就職出来た者で、家族は、妻佐代(49歳)、結婚を控えた息子仁八(33歳)で、維新の苦しい生活の中、禄を離れた旧藩士が生計に疲れ、百間堀に入水自殺が絶えなかった当時、仁兵衛一家は御仲間町(今の小橋町辺りか)の小さな棟割長屋で細々ながら食う米の心配もなく比較的幸せに暮らしていました。
(百間堀)
仁兵衛が、恩人である菅野輔吉に呼ばれたのは、禁固の刑に服している輔吉が手元不如意から秘蔵の古九谷の茶器の転売先を頼まれ出向き、運悪く暗殺の現場に居合わせ、巻き込まれて死亡します。致命的な刀傷もなく、太ももの刺し傷を除けばみな浅手の傷で、おそらく出血多量による死であったと思われます。
(金沢城跡)
葬を済ませてしばらくは、父思いの仁八が荒れにあれ、佐代をおろおろさせます。「糞ったれ。おやじ殿を殺した奴ら牢から出たら叩っ殺してやるぞ」と息巻き、錆びた脇差を毎日研いでしたのをみるにつけ佐代は不安でたまらなく、知り合いにも相談し、県庁にも足を運び、仁八の説得を懇願します。県庁では、そのつど話を聞き何がしかの見舞い金を佐代に渡し生活の足しにしていました。葬の時以来、かなりの金額が県庁を通し本多家からひそかに下る下附金の一部でした。
そして本多家に属する士族たちの恨みを晴らす復しゅうは血なまぐさく強行され、直接行動した15名、討たれた側3名でしたが、本多家の士族12名は、翌年明治5年11月4日に、そろって白鳥路の金沢刑獄寮(今の金沢方裁判所)で切腹刑に服します。
(十二義士墓所)
やがて仁兵衛が通っていた金沢県庁は石川県庁になり、石川郡の美川(本吉)に移り、1年足らずで再び金沢に戻り、広坂にあった藩の営修局跡(堂形)に県庁が建ちます。その頃には佐代は内職で目細の毛針造りを仁八は常雇いではないが、県庁へ人足を連れて出入りしていました。
ある日、下附金が下り、佐代は出向いた県庁で顔見知りの吏員が、死んだおやじさんのえにしということから仁八の県庁への常勤の話が持ち上がります。はじめは小使いという話でしたが、日ごろ県庁に出入りしていた仁八の仕事ぶりを見ていたのか、下りた辞令では給与を貰える役職で仕事は河川や営繕の作業監督でした。
(石川県庁の破風のご紋章)
ある日の午後仁八の仕事は、庁舎の破風に金箔を貼った16弁の大菊の天皇陛下のご紋張りの大切な仕事がはじまりました。27、8歳の女連れの佐代は、あの事件で祝言が延びた許婚の菅野輔吉の息女お袖と共に仁八の晴れ姿をと、大急ぎで人をやり呼び寄せます。佐代は込みあげてくる幸せにほほを濡らし、お袖もいつしか泣き笑いをしている。長年じっと待ちこらえた女2人の同じ思いの涙であった。と結ばれています。
“禍福は糾える縄の如し”
参考文献:金沢小説小品集Ⅱ「長町ひるさがり―県庁のご紋章―」大戸宏著 昭和53年4月 株式会社北国出版社発行