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版籍奉還と金沢藩

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【石川県・富山県】

明治2年(18696月、加賀藩は版籍奉還により「金沢藩」と呼ばれるようになります。当時、加賀藩主前田慶寧公は、「近年、藩土奉還(版籍奉還)の裁きがあるが、もとより当家においても望むところであるから、奉還の天裁を仰ぎたい」と版籍奉還を願い出ています。これにより藩知事となり、ひとまず藩主同様の地位が認められます。新政府は藩知事に対し、治政上の改革を命じ国号を持つものは、みな階位を持って呼ぶことにし、慶寧公は従三位なので従三位(じゅさんみ)“というふうになります。また、藩知事の家禄を旧藩の石高の十分の一とし、個人と藩の財政が分離されます。

 

 

 (金沢城石川門)

 

版籍奉還(はんせきほうかん)は、明治2年(1869617日(旧暦725日)から、明治新政府が行った藩解体政策で中央集権化事業の第一歩でした。諸大名から天皇へ領地(版図)と領民(戸籍)が返還されます。 木戸孝允と大久保利通らの画策により、まず薩長土肥の4藩主が奉還し、他藩もこれにならいます。 政府は全国の支配権をその手におさめ、藩主を藩知事に任命、以後、廃藩置県など中央集権化を推進します。これはさきに徳川慶喜が行った大政奉還の大名版で、将軍家の徳川家が実権を放棄したのに、諸藩に責任を負わすのは限りがあるので、版籍(領地・領民)とも差し出して、明治新政府の統制下の置くことにしたものます。)

 

 

(戦前まで兼六園にあった慶寧公の銅像)

 

金沢藩でも中央の官制改革に応じ職制も改め執政・参政を廃し、大参事、小参事など、給禄も藩士の家禄3000石以上は十分の一、以下百石までのあいだを、斜線式計算法により逓減するというものとし、百石以下はそのままとします。

 

 (今、復元中の鼠多門)

 

しかし、版籍奉還後の金沢藩政は、戊辰戦争による軍事的支出からの藩財政が逼迫し立て直すことが目標となります。藩の軍事力縮小や秩禄処分の前倒しとも言える「禄券法」を含む改革を導入しようとしますが、このような急進的な改革を進めようとしたことが、かえって藩内の摩擦を生み、中下級士族たちの反対派が台頭し、彼らが藩政の中枢を掌握することになります。

 

その頃には藩の中下級士族の生活は、幕末期以来厳しい状態になり、特に金沢は士族人口が多く、版籍奉還後の家禄を大幅に削減する禄制改革で、大半の士族が生活は窮乏し、事態は次第に深刻化していきます。

 

 

(長町武家屋敷)

 

このように武士階級凋落は、武家屋敷も様変わりします。明治初年の文書では、加賀八家の本多殿や長殿などの下屋敷の地面は上地になり、入口、木戸、番所残らず取り払われ、人持衆の屋敷、建物も壊したり、売ったりとさまざまだったと書かれています。

 

 

 (長町武家屋敷)

 

お城も一部士官を養成する斉勇館が設置され(明治4年より兵部省管轄)惣構も不用になり、西丁橋、十間町橋から袋町橋などは取り払い、土居は崩れて埋め、立木も伐られ、少々の溝をこしらえ、洩れ水を通してありました。それから13代前田斉泰公は、金谷御殿に居られました。

 

  (鼠他門を渡ると金谷御殿)

 

この前後、香林坊や極楽橋、小橋あたりの情景が一変し、城下のお歴々の屋敷も変化します。今枝殿元屋敷は、卒族方(旧足軽)の役所、横山殿は大隊屯所、奥村殿は大隊屯所、村井殿は士族の稽古所、前田土佐殿は切り売り、今枝殿は卒族方役所、津田殿は医学所、成瀬殿は壊し売り、前田万之助殿、内蔵之助殿、深見殿、松平大弐殿、篠原殿、青山殿、多賀殿、織江殿、寺西殿ら、目も当てられぬ事也とあります。

 

(津田殿の大手町の医学所・現在、兼六園に移築されています)

 

その頃の従三位藩知事慶寧公は、本多家上屋敷に入り、長殿の上屋敷が藩庁になり、毎日、九ツ時(12時)より七ツ時(16時)まで出席されます。道筋は広坂より坂下、堂形馬場通り、金谷へ入り、七十間御門より不明(あかず)御門を経て藩庁へ行かれ、少々の御供廻りで、雪の日は石浦通りへお出になられたとあります。

 

≪版籍奉還の経緯≫

明治元年(186811月に姫路藩主の酒井忠邦から版籍奉還の建白書が出されます。その背景には藩の財政悪化や戊辰戦争における藩内の内紛もありました。実施に当たり新政府の木戸、大久保ら薩・長・土・肥の実力者が、それぞれの藩主を説き伏せ、4藩主連名で奉還を上奏されます。版籍奉還には、諸藩の抵抗も予想され、実施に際し、その意義については曖昧な表現で諸藩代表に同意を求めます。賛否両論が伯仲(賛101藩、否102藩)し、このため藩の中には「将軍の代替わりに伴う知行安堵を朝廷が代わりに行ったもの」と誤解する者もあり、版籍奉還は、大した抵抗も無く同意されます。しかし、当時の全国の石高は約3000石、政府直轄地(府、県)とした旧天領や旗本支配地等から四分の一の約860石。差額の2140石(藩)は、新政府の所有には違いありませんが、これらの石高は藩によって消費され、大蔵省に納入されない「府藩県三治制」で、国も藩も財政に追い込まれます。

 

(1百間堀と石川門)

 

しかし版籍奉還になったものの藩制度がそのまま残り、それぞれの藩は独立して機能し、例えば、年貢徴収法が地方によって異なり、軍制も国に兵権が集中する分けでもなく、2年後、さらに中央集権が徹底される「廃藩置県」行われます。

 

(版籍奉還さらに廃藩置県は、士族の頼みの綱である家禄が、明治9年に秩禄処分で武士の俸禄制度は撤廃され、廃刀令の施行などで士族の身分的特権も廃され、やがて起こる士族の反乱の遠因でもありました。)

 

秩禄処分:士族の特権であった禄を強制的に取り上げ、期限付きでわずかな利子しか受け取れない公債に替える急進的な改革で全てが回収されました。当時士族は、家族を含み人口のわずか6%程度で、何の官職につかなくても国家財政の40%弱を受け取ることには批判があり、藩主への忠誠と武力の提供と引き換えに禄を受け取るという概念が形成されていましたが、明治維新後は、地租改正により農民の土地所有権が国家によって承認される一方で、士族の土地所有権は否定され、士族による武力の独占が徴兵令で失われ、士族自身も近代国家建設のため旧特権を廃止することを理解するものいました。一方で、旧藩主階級は公債額の算出根拠となる家禄が旧藩収入の十分の一とされるなど優遇され、華族となることで様々な恩恵を与えられ、また、東京居住を強制されることから旧家臣団から切り離された中で、秩禄処分は極めて抵抗が少ないところで実行されました。

 

参考文献:「幕末維新加賀風雲禄」戸部新十郎著 株式会社新人物社 19977月発行・外


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