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本多政均暗殺と仇討ち①暗殺まで

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【金沢藩・金沢城】

本多播磨守政均(まさちか)は、安政3年(1856)に兄政通が夭折したため五万石の家督を継ぎ、万延元年(186023歳の若さで加賀藩城代に任じられ、藩主前田斉泰公の信頼が篤く、政均は、「梅鉢海軍」と俗称された加賀藩海軍の建設に熱心に取り組むなど、西洋軍制の導入をはじめ改革を積極的に推し進めます。

 

 

  (金沢城石川門一の門、二の門)

 

しかし、尊皇攘夷派と鋭く対立し、元治元年(1864)に元治の変(禁門の変)が起こると、尊攘派の中心だった世嗣前田慶寧公を謹慎とし、藩内の尊攘派を放逐し過酷な処分を行い、藩内に遺恨を残します。明治2年(18696月、加賀藩の14藩主前田慶寧公は、版籍奉還に踏みきり、新政府から藩知事に任じられ、本多政均は、加賀八家で執政という地位にありました。

 

  

  (本多政均)

 

(版籍奉還前の加賀藩執政は、前田直信、奥村栄通、村井長在と本多政均の4人の合議が建前なのに、何事もほとんど政均の独断で決まったという。)

 

拙ブログ

本多の森の主!!初代本多政重①

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12307867414.html

本多の森の主!!初代本多政重②

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大弐が死んで、何と庄兵衛!!

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11308900520.html

元治の変(禁門の変)ほか

 

版籍奉還により、執政は藩知事の下に一人限りの大参事になり、一人となれば現状では政均となり、ますます政均が発言力を持つことになるのを恐れ、その専横ぶりはより一層強まることを危惧した不平士族らによって計画され、山辺沖太郎(三等上士嫡男27歳)井口義平(一等中士22歳)により、明治2年(186987日に金沢城二の丸御殿の廊下で暗殺されます。ときに政均32

 

(明治2年(1869326日。版籍奉還のより加賀藩は金沢藩になり、政府は藩知事に対し、治政上の改革を命じ、国守を持つものは、みな位階を持って呼ぶことにします。また、従来の職制が改定され、藩主は藩知事に、執政・参政を廃し大参事(一名)・小参事(複名)としこれが藩知事を補佐して政治にあたることになります。そして、旧加賀八家は上士上列、人持組は一等上士、頭役および頭並を二等上士、平士は三等上士、与力は一等中士、徒歩は二等中士、徒並は下士と改称した。)

 

  

  (本多家上屋敷跡)

 

しかし、その本多政均が暗殺された理由がはっきりしません。一説には明治維新前後の藩政の舵取りで、佐幕派と尊王攘夷派、革新派と保守派による複雑の対立が本多政均の暗殺に繋がったといわれていますが・・・?

 

それを裏付けるものとして、今は残っていませんが、2日前の5日夕実行者2名を含め同志7名が酒の席で読み上げた「斬奸趣意書」が有り、現在、語り継がれているのは、事件の口述書で、暗殺に至る動機として以下が伝えられています。

 

  1. 政均は自己の権威をほしいままにし、藩侯斉泰・慶寧の英明をおおい隠してきたばかりでなく、慶寧公を退穏させようとしたこと(加賀藩の勤皇派の大部分は慶寧側近で、政均は、その様に噂されていたかもしれない)

  2. 政均は藩内に高岡藩を興し、自らその藩知事になろうとしていること。(風聞にすぎないが、幕末維新時、尾張藩のように立藩ないし分藩を試みる有力者が実際のいて、本多家は5万石の陪臣、後に爵位が家老ならば男爵どまりですが、旧藩主であれば、ひとつ上の子爵を受けることができる?)

  3. 元治の変において志士たちの処刑はやむを得ないとしても、維新に彼らの子孫に寛大な恩典を与えるべきなのに、黙殺していること。(元治の志士たちへの同情か・・・)

  4. 西洋の風を模倣し、古来の弓矢刀剣を廃し、士風をおとしめたこと。(洋風排撃・・・)

  5. 富国強兵の策を講ぜず、財政を逼迫させ、物価の高騰を招き、農民らを困窮させ、ついに反抗心を生じさせたこと。(財政窮乏、農民離反は何も政均一人の責任ではない)

 

このように、口述書から推測される「斬奸趣意書」の内容は、事実とはかなり外れているように思われます。

 

また、このようにも言われています。

本多播磨守政均は、従五位に叙せられたので、本多従五位と呼ばれ、幕末には斉泰公・慶寧公の従い、または代理としてしばしば入京し、加賀八家の中では、若くて抜群の進歩主義といわれ、常に論客を集めて時事を論じたといいます。

 

 

(本多家中屋敷の霞ヶ池)

 

事件後の人物調査書によると、「不学無文だが、性敏捷、国事の尽力して怠ることなく、私事を顧みず、斃(たお)れてのちやむの気概がある。」藩知事も信頼していたし、「執務中、とかくに失態はなかった。」ただし、治政の実権はほとんど彼の手に握られていたため、維新の混乱紛糾しがちな状況を「政均の仕業として誹謗するものが多く人望無く、憎まれていたようだ」といわれています。

 

 

(本多家上屋敷跡)

 

"不学無文“というよりも、若さ故に系統だった学問がなかったのかもしれないし、一方では将来の才気と時勢を見抜く眼や、回転の利く頭脳の持ち主であったと思われます。また、人の出入りの多いことが、かれが党をつくり、陰謀を企む証拠だと疑い、あるいはことさらに言い立てる者がいたのかも・・・。しかし、政均自身は、まったく意に介することはなく、人に寄っては傲岸不遜と映ったのでしょう。

 

この様な理由で事件が起こったのでしょうか!!謎の権力闘争・・・?事実かフィクションか?

 

(つづく)

 

参考文献:「加賀風雲禄」戸部新十郎著 株式会社新人物往来社 19977月発行「明治忠臣蔵」中村彰彦著 株式会社双葉社 199512月発行「加能郷土辞彙」日置謙著 金澤文化協会 昭和172月発行他

 


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