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本多播磨守暗殺事件と仇討ち③暗殺事件始末

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【金沢藩・金沢県】

山辺は、真っ向から政均の頭を打ち、井口は、がっくりとうなだれた政均の首を引き斬り、返り血を浴びた刺客は止めを刺そうとしたとき、徒歩目付け3人が駆けつけてきて大声をで制した。山辺と井口は本意を遂げてその場に座りこみ下知を待ちます。政均は屏風囲いに寝かされ御医者黒川良安の診察をうけ、城内では石川門や河北門を閉ざし一切の出入りを禁じました。一方、藩知事慶寧公は、政均の女婿の長成連を本多家に遣わし、軽挙妄動を慎むよう、一門・老臣に懇諭させます。

 

 

(石川門多聞櫓)

 

夕方には執政前田直信、参政前田内蔵太を遣って弔詞を述べ、嗣子資松(当時6歳)の遺領相続を伝えます。本来、主人が横死したところは、事の委細に関わらず、家名断絶の決まりがあるが、特別に5万石がそのまま資松が相続することになり、本多の家臣らを安堵させ、事を構えさせないための熟慮の処置がとられたことからも、藩知事慶寧公は本多家には気を遣っていたことが窺えます。

 

 

(本多上屋敷跡)

 

翌日には、菅野輔吉、岡野悌五郎、多賀賢三郎、松原乙七郎、岡山茂が連累者として捕われます。斬奸趣意書を書いたと言われる土谷茂助は捕吏が行く前に自刃し、土谷は目的が達成すれば、刺客と同じ死を覚悟していたものと思われます。

 

 

(本多中屋敷跡・版籍奉還後本多宗家屋敷)

 

彼らの取調べは、新政府の警察機関弾正台から大巡察、小巡察が東京から出張してきます。これらの役人あてに市民からの陳情書が出されていました。それらは山辺らの所業を擁護するもので、政均を誹謗する内容でした。

 

一方、本多の家臣らの憎しみは募り、政均の従兄弟にあたる本多弥一(25歳)を代表に140人が連署した嘆願書が藩庁に提出されます。嘆願書には“山辺、井口は主人を暗殺した者であるから取調べした後には身柄をこちらへ下げ渡してほしい”というもので、叶わぬときは“せめて首をはねる役目を本多の家臣にしてほしい”10数回のわたり嘆願するも聞き入れられなかったと言われています。

 

 (本多家周辺図)

 

(本多弥一は、本多家8代安房守政礼(まさつぐ)の3男伊織政醇(まさあつ)を父とし、殺された政均の従兄弟。嘉永2年(1849)政醇(まさあつ)から家督を相続し、本多家の分家で家禄500石。明治維新以降は分家をくだって本多家の家臣の身分で、宗家の家老を勤めています。)

 

一同の刑が定まったのは明治4年(1871214日です。刺客の山辺・井口両人は自刃を命じられ、他菅原輔吉3年間の自宅禁固、多賀賢三郎、岡田茂、岡野悌五郎70日間の自宅禁固に処せられます。

 

前日の13日、藩知事慶寧公が本多弥一に対し"新政府では、いかなる事情でも復讐をしてはならないことは刑典で定められている事からも、あえて行うならば天皇に背くことになり、藩知事も資松も責めを負うことになるので、家臣を懇切に諭すよう“と言われていました。

 

 

(本多宗家の屋敷・版籍奉還が前田慶寧公が御住居)

 

しかし、弥一は藩知事慶寧公の説諭に心を動かすことなく、その日、弥一は家臣200人を自宅に集め藩知事より説諭された事を伝えます。そして弥一は“藩知事は職掌柄やむをなくおっしゃったこと、新法典は我々にどの様な罪を与えようと恐れない、先主人の恩顧に報い、無念を晴らすのは武士の本領。武家社会の美徳である。”と述べ、数100人の家臣が選ばれ刑獄寮(今の地方裁判所)に乗り込み牢に繋がれている山辺・井口を引きずり出し殺害しようと言うことになり、家臣らが雄叫びを上げたといいます。

 

(刑獄寮跡・今の地方裁判所)

 

ところが、貧民姿で刑獄寮周辺を探っていた家臣が、山辺・井口両人の処刑が終わった事を伝えてきます。集まった家臣たちは"仇討ちは自然消滅だ“と意気消沈しうなだれ去って行きますが、それを見送る本多弥一は、復讐への思いは失ってはいませんでした。

 

(つづく)

 

参考文献:「加賀風雲禄」戸部新十郎著 株式会社新人物往来社 19977月発行「明治忠臣蔵」中村彰彦著 株式会社双葉社 199512月発行「加能郷土辞彙」日置謙著 金澤文化協会 昭和172月 「尾山城魔界」正見巌著 北国新社 201311月発行他

 


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