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本多播磨守暗殺事件と仇討ち④仇討ち

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【金沢県】

明治4年(18717月、金沢藩は金沢県に変わります。その頃、県庁は長町の長家の屋敷にあり、岡野悌五郎多賀賢三郎70日の禁固刑を経て、県庁の役人小属(判任官12等兵隊の位で言うと軍曹)に任じられていました。

 

 

 

明治4年(1871714日、政府は廃藩置県の詔書を発布します。太政官が金沢藩庁に与えた文面は、

御沙汰書

今般判を廃し県を置かれ候については、おって御沙汰候まで大参事以下これまでの通り事務いたすべき事。

 辛年七月

これによって、300年の歴史を誇る金沢藩(加賀藩)は地上から消滅し、あらたに金沢県が成立したので巣。)

 

 

 

一方、本多家側は、最盛期約300人がつめかけ大焚き火を焚いた本多弥一の庭も今は嘘のように、「読書会」と称し集まるものも弥一を入れて15人になっていました。

 

 

 

本多弥一(26歳)本多家家老500石、矢野策平(45歳)近習兼剣道指南50石、西村熊(23歳)近習加用役100石、鏑木勝喜知(31歳)中小将組家老席執筆役、富田聡(21歳)給人組・近習加用役衣服料13俵(父本多家家老300石)舟喜鉄外(31歳)中小将組・扈従役、10俵、浅井弘五郎(24歳)中小将組・近習役10俵、吉見亥三郎(22歳)徒組・小将列、芝木喜内(29歳)徒組・近習手水役、広田嘉三郎(23歳)徒組・手水役、湯口藤九郎(30歳)足軽、藤江松三郎(27歳)足軽、清水金三郎(24歳)徒組・手水役、島田伴十郎(33歳)足軽、上田一二三(35歳)足軽の以上。

 

 

 

「読書会」に指定された書物は、水戸の藤田東湖の「回天詩史」、浅見絅斎の「靖献言遺言」、室鳩巣の「赤穂義人録」などで、特に尊ばれた書物は、室鳩巣の「赤穂義人録」でした。鳩巣は、加賀藩に仕えて儒者で、赤穂義士の討ち入りを絶賛した学者であり、その著「赤穂義人録」は信頼のおける名著でこの時代まで読み継がれていました。

 

「読書会」は、次第に15人の胸の中では、“これこそ第二の義士たらに、ならねばならない”との思いが燃え上がるようになり、思いを遂げた暁には死につかねばならないと思うようになり、藤田東湖の著作を輪読したのは、自分たちが遠からず死に就かねばならないことを自分自身に納得させていくためでもありました。

 

 

 

しかし、この読書会にも疑惑の目が集まり出し、"本多弥一らは、飽きもせず復讐を計画する場なのではないか?“という噂が広がり、やむなく読書会も中断しなくてはならなります。

 

 

 

明治4年(18711123日、長町の県庁に岡野悌五郎を討つべく、本多弥一以下鏑木勝喜知、富田聡、吉見亥三郎岡野悌五郎の退庁を待ち受け襲う、応戦中、悌五郎が溝の落ちたところを、一同で刺し殺し、直ちに県庁へ自首しました。同行した清水金三郎は岡野襲撃を見て、直ちに菅野の討手に報告のため加わらなかった。

 

 

 

同日、矢野策平、舟喜鉄外、西村熊、浅井弘五郎、広田嘉三郎、湯口藤九郎、清水金三郎7人が小立野与力町の菅野輔吉の自宅で討つ。輔吉は、槍の名手で、応戦するが、前後から斬られて斃れた。一同は首を政均の墓所の方角に向って捧げ、県庁へ自首します。また、輔吉は句読を教授していたので、弟子たちが刃向かってくる場合を予測して人数を多くしたという。

 

 

 

これより先、関西視察に出張した多賀賢三郎を追跡していた芝木喜内、藤江松三郎は長浜で追いつき、1124日、これを刺殺して、彦根県へ自首し金沢に移送されます。

 

 

 

ほか松原乙七郎ら出国者を追跡した島田伴十郎、上田一二三は、果せぬまま、当初の目的3人を打ち留めたことで満足し、この復讐は終わりました。

 

(つづく)

 

参考文献:「加賀風雲禄」戸部新十郎著 株式会社新人物往来社 19977月発行「明治忠臣蔵」中村彰彦著 株式会社双葉社 199512月発行「加能郷土辞彙」日置謙著 金澤文化協会 昭和172月 「尾山城魔界」正見巌著 北国新社 201311月発行他

 


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