“かれらこそ第二の赤穂浪士、いや「本多義士」と称えられてしかるべきだ”という感想を抱く者は、県庁の上層部にも少なくなかったと伝えられています。しかし、御一新の時代では、表向き義勇の武士として誉め称えられず、新しい法典によって裁かれることになります。
(大乗寺総門)
それでも、囚われた15人は尻垂坂(兼六坂)通りにある刑獄寮の獄舎に繋がれ、一般の囚人とは違う待遇で特別扱いの未決囚でした。面会は許されないももの、文通や差し入れ品の授受は黙許され、定期的には刑獄寮の庭を散策することも認められていました。
15人にとって死は覚悟の上のことですから、時々取り調べで呼び出され口述書を作成する時と散策の時間以外、獄中で静かに読書をしたり絵を描いたり、歌会や句会を開いたり辞世を考えたりして判決の下るのを待つだけの日々でした。
(大乗寺山門)
約1年間、獄中で過ごした15人に判決が下ったのは、金沢県が石川県に改め、県庁が石川郡の美川に移つされてから9ヶ月後の明治5年(1872)11月1日でした。
判決は、本多弥一以下12人は自裁を仰せつけられ、世襲俸禄のものは子孫に給うべく候というものでした。伝令役で、菅野輔吉邸に駆けつけたあと門外にあった清水金三郎は、禁固10年。島田伴十郎と上田一二三は禁固3年を仰せつけられ、この日、明治5年11月1日は金曜日で、弥一以下12名の切腹は、週明け11月4日月曜日の午後2時からと定められます。
(大乗寺十二義士墓所)
12人の遺体は、その日の内に引き渡され、刑獄寮に集まった遺族の中に、盲目の老婦人がいました。その白髪髷の老婦人は芝木喜内の母で、筋張った両手で柩を愛しそうに撫でさすりながら、「ああ、喜内よ、そなたはまことに忠臣や、いや義士や、そなたが仇討ちに加わってくれたからこそ本多家に恩返しが出来た、ご先祖さまにも面目が立ったというものや、それに、そなたが盲目の母に後ろ髪を引かれなかったことが、何よりうれしくてならぬ、早う冥土のお父上のもとにゆき、事の次第を告げなされ・・・・」
この言葉に獄吏のほか11人の遺族たちは、寂として声もなく老婆を見つづけた。そして、この日から本多弥一たち12人を誰からともなく、「十二烈士」と呼ぶようになった。と作家中村彰彦氏は、「明治忠臣蔵」でお書きになっています。
(本多宗家の墓所)
しかし、このほかに烈士と呼ばれる男がいました。その男は11月5日朝、大乗寺の政均の墓前で十二義士の負けじと追腹を切った元本多家中小将組のひとり竹下卯三郎です、卯三郎は、山辺・井口両名が切腹刑に処せられたころ、弥一を訪れ、同志に加えてほしいと決死の面持ちで訴えたというが、本多家家臣の養子となって日が浅く、どのような心情かよく分からないということら、弥一はその願いを聞き入れなかったという。また、元本多家家臣の諏訪八郎准中尉は、明治4年(1871) 12月12日自殺したという。原因は本多政均暗殺者の一党と目された石黒圭三郎(後の桂正直)の所在探索を同志から託されたが、不成功に終ったことを恥じたものと見られています。
(上田一二三ほか四基の墓)
(大乗寺の本多家墓地の十二義士の墓の傍らに大正三年(1914)八月有志建之、上田一二三、島田十方?(伴十郎)、清水金三郎?ら五基の墓がありますが、一人は墓石に竹下直久(卯三郎)もう一人は諏訪○○が見えます。天気が良くなったら確認に行ってきます。)
(大乗寺法堂)
藩政期の武士は、義、勇、仁、礼、誠の徳目は名誉を深く重んじる身分に伴う義務で、特に「義」と「勇」は、周りに流されずに正義を守る勇気を持つ者こそ真の武士だと言われていました。そして、死すべき場は死し、討つべき場は討つということから、「仇討ち」は武士にとって崇高な理想であり美徳で、成せば義士と呼ばれ称えられました。しかし、明治の新法典では、「仇討ち」は殺人罪と定められ、同じ行為でも正反対へ急転していました。
(本多政均)
営々と続いてきた武士道の精神を、新しい法典を乗り越えて命を捨てて守った本多家の家臣たちは、御一新の大変革の浪に翻弄されながらも武士道を貫きます。そして、この事件は、日本の武家社会の終焉に当たり武士による"最後の仇討ち"となりました。
その後、明治6年(1873)2月に敵討禁止令が出され、以後、「仇討ち」は御法度となります。
参考文献:「加賀風雲禄」戸部新十郎著 株式会社新人物往来社 1997年7月発行「明治忠臣蔵」中村彰彦著 株式会社双葉社 1995年12月発行「加能郷土辞彙」日置謙著 金澤文化協会 昭和17年2月 「尾山城魔界」正見巌著 北国新聞社 2013年11月発行他