【能登・七尾市】能登は、“温泉好き”や“美食家”だけでなく、“歴史好き”にとっては堪りません!!いまさら私が言うまでもありませんが、歴史の深さと、過疎で開発されなかったお陰か、今も残る文化遺産は、本当はそっとして置きたいと思うほど魅力的です。
(七尾城跡の石垣)
4月7日。花見の時期というのに、急速に発達した低気圧で強風と雨の真っ只中、まいどさん13期の研修会に便乗させて戴き、前田家ゆかりの七尾城跡、小丸山城跡そして山の寺寺院群の見学に行ってきました。
(七尾城跡のイラスト)
(小丸山城跡にある長谷川等伯の碑)
今、七尾といったら直木賞作家安部龍太郎さんの歴史長編「等伯」が話題を呼んでいますが、今回は、等伯の故郷、等伯のいた頃からあるという300mの城山に登りました。この城山にある七尾城跡は、その昔、能登畠山の居城で、七尾湾が一望にできる絶景だといいますが、その日はグレーのヴィールが掛かっていて、景色は写真で見るか想像するしかない灰色の世界でした。
(灰色の本丸跡)
(“七尾”という名は“七つの尾根”(松尾・竹尾・梅尾・菊尾・亀尾・虎尾・龍尾)から由来されたもので、別名として「松尾城」あるいは「末尾城」ともいったそうで、城が七つの尾根のうち“松尾”に築かれたためだといわれているが、今は、七尾城としか聞かない。)
(七尾城跡の石垣)
七尾城は、天正5年(1577)城が上杉謙信に包囲され、1年にわたって持ちこたえますが、幼い当主畠山春王丸のもと長家と温井や遊佐の重臣同士の対立が、結果として城は孤立し徹底抗戦を主張した重臣の長氏一族が殺害され、同年9月13日に開城された歴史があります。その時、上杉謙信が詠んだ漢詩「九月十三夜陣中作」は有名です。
霜満軍営秋気清
数行過雁月三更
越山併得能州景
遮莫家郷憶遠征
霜は陣営を白くおおい、秋の気はすがすがしい。空には雁の列が鳴き渡り、真夜中の月が冴えざえと照らしている。越後と越中の山々に、今、能登の景色も併せて眺めることができた。故郷にいる家族たちが、遠征のこの身を案じていようと、それはどうでもよい。
(この漢詩では“能登はとったぞ~。家族どもが心配していよるが、どうでもいいことや”と胸を張っているように聞こえますが、“どうでもいいことや”といいながら故郷の家族を忘れない、謙信の優しさも見え隠れしている。ということらしい・・・。とはいえ、それこそ“どうでもいいこと”ですが、この漢詩は謙信が詠んだものでは無いとも聞きます・・・。)
(七尾城跡の要石"九尺石”)
≪“はろうななお“のガイドさんから聞いた話≫
上杉謙信が、七尾城を取り囲んだ時の話です。難攻不落には兵糧攻めに限るとばかりに1滴の水も城内に入れないようにしますが、数ヶ月後、古府の橋の上に立ち、城山を見ると、城山の山上から白い水が滝のように流れ落ちています。
これを見た謙信は、長期戦をあきらめて、越後へ戻りかけようとしたら、家来の1人が、“白い滝にカラスが群がりはじめたぞ!”と叫ぶので振り返って見ると、それはカラスであり、白い滝のように見えたのは、白米だったのです。謙信は再び引き返して城山を攻め、陥落させたといいます。
(小丸山城跡)
越中国と能登国を繋ぐ要所である七尾城は、のちに織田氏によって領され、やがて前田利家公が入城しますが、すでに山城の時代ではなく、拠点を小丸山城に移したため、しばらく子の前田利政が城主となりますが、天正17年(1589)廃城になりました。
(小丸山城の絵図)
前田利家公が能登に在国の折、小丸山城に移ったため、開発や災害などによる遺構の損失を逃れ、非常にしっかりと遺構が残っています。山城の歴史上とても重要な遺跡として、昭和9年(1934)国の史跡に指定されています。
(食祭市場)
お昼は、七尾フィッシャーマンズ・ワーフ能登食祭市場で、加賀屋さんのお弁当をいただきました。また、食い気が勝ったようで写真を撮るのを忘れてしまいましたが、小さな“ばい貝”や“白魚””チラシ寿司“等々、会費から推し量ってみても決した高額のものではないとは思えますが、しっかり能登が詰っていました。
(フィッシャーマンズ・ワーフ能登食祭市場)
小丸山城は、前田利家公が織田信長公の指示により能登一国の国主となり、天正9年(1581)七尾城に入城しますが、七尾城は山城であり防御上は利点がありますが、港から離れていて治世・経済上の不自由から、利家公が七尾港に近い所口村の小丸山に平山城を築き移り住みました。天正10年(1582)に築城され、河川と海が堀の役割を果たす水城で、城は能登水軍の本部の役割も果たしたといいます。
山の寺寺院群は、天正9年(1581)、前田利家公が奥能登地域からの城の防御を目的に、浄土真宗を除く各宗派の寺院を防御陣地として移転配置したそうで、設置当初は29の寺院があったといわれていますが、現在は16寺で、無住のお寺も多いと聞きます。
寺院間を結ぶ山道は“瞑想の道”と呼ばれ、平成14年(2002)放送のNHK大河ドラマ[利家とまつ]が決定したことで、山の寺を全国に広めるために、数億円を掛けて整備されと聞きます。 (今年の秋には、何年か前から金沢、高岡、米沢などお寺で町おこしをしている都市が集まり開催している「お寺サミット」が開催されるそうです。)
(瞑想の道の完成碑)
“瞑想の道”は、藩政期を想わせる山間に連なるお寺のある風景は、始めて来たのに懐かしく、雨風で荒れる山道も興味津々、晴れ間を縫って、それなりの楽しいものでした。しばらく行くと視界が開け、前方に、先ほどまでいた七尾城址や小丸山城址が見えるところには、利家公が金沢に去った後、城代として小丸山城を守った兄前田安勝親子の墓がありました。
(この辺りからカメラは電池切れ、後は、秋の「お寺サミット」で撮ることにします。)
ガイドさんの話によると、平成19年(2007)3月25日の能登半島地震で、墓地を囲っていた玉垣などが崩壊したので撤去したのだといっていました。当時を知らないものとすれば実感もなく、ただ聞き入るだけでした。
しかし地震の爪跡が無残な形で留めていたのが、長齢寺の門前だったと思いますが、幕末の勤皇の志士堀四郎左衛門の石碑が2つに折れたまま放置されていたのを見てその凄さが容易に想像できました。
(堀四郎左衛門:百五十石の加賀藩士。明倫堂句讀師で、後、組外番頭で慶寧の近習を兼ねる。“元治の変”後、慶寧公の謹慎にともない能登島流刑。慶応4年(1868)ゆるされて神職となる。明治29年(1896)3月17日歿す。年七十八歳。大正6年(1917)11月特旨を以て從五位を贈られる。)
(宝幢寺の元禄時代の天井)
(宝幢寺の元禄時代に建立された本堂)
≪見学させて戴いたお寺≫
浄土宗知恩院末 無量山宝幢寺
(本堂は元禄年間に建立、天井や柱・壁の絵は僧心岩の作。)
曹洞宗總持寺直末 瑞雲山龍門寺
(長谷川等伯の「達磨図」が有名。)
曹洞宗總持寺派直末 天満山徳翁寺
(「ボタンの寺]として有名で、門が二重山門になっている。」)
曹洞宗總持寺派宝円寺末 休嶽山長齢寺
(利家公、父母や兄弟の安勝、利政の肖像画がある。)
今回、見せて戴いたお寺は、どちらも一言で言い尽くせない歴史のある名刹で、他の寺院も含めて秋の「お寺サミット」の時に詳しく書きたいと思っています。
(七尾城址での私の最大の収穫は、永らく、足が痛くて山登りは途中で断念することが多かったのですが、今回、急な登りでも足の傷みも無く登れたこと、訓練のたまものか!)
(町の掲示板で見つけた七尾市内地図・桜ののところが小丸山城址)
●雨風を忘れてしまいそうなおもろい話もありました。当日お世話にりました“観光ボランティアガイドはろうななお”のみなさん、ありがとうございました。