【本多町界隈】
本多町の位置は広坂地区に隣接している中心市街地ですが、町名は藩政期、加賀藩老臣である本多家の中屋敷と下屋敷があった地に由来します。藩政期は、安房殿町、安房殿の家中(かっちゅう)と呼ばれ、現在も中屋敷の庭園が北陸放送裏の松風閣庭園に残っています。広坂交差点から桜橋を経て寺町5丁目交差点を結ぶ通称本多通り(金沢市道)が南北に縦貫しており、本多通りの東側には本多公園や鈴木大拙館などの緑地帯が広がっています。現在は、本多町1丁目から2丁目は戦災を免れた袋小路状の路地が現在も残されています。旧町名は明治5年(1872)に採用されますが、昭和39年(1964)に住居表示制度の導入により、本多町周辺の町名、地番の整理が行われます。現在は、旧町名の下本多町の一部が本多通り北西に残り、大部分の旧の上・中・下・欠下町・短丁の旧本多町は、本多町1丁目、2丁目、3丁目と周辺の町が吸収されます。
(本多通り・左は北陸電力・金沢中署・金沢歌劇座・右は北陸放送など)
(地図のベースは昭和29年頃・本多町界隈)
1964年(昭和39年)4月1日の町名変更
本多町1丁目:旧手木町の全部及び旧笠舞町甲、旧笠舞町乙、旧笠舞町ホ、旧中欠原町、旧新坂町、旧上本多町一番丁、旧上本多町二番丁の各一部
(旧上本多町)
(旧上本多町)
本多町2丁目: 旧中本多町一番丁、旧中本多町二番丁、旧中本多町三番丁、旧中本多町四番丁、旧中本多町欠下丁、旧中本多町短丁の全部及び旧上本多町一番丁、旧上本多町二番丁、旧中欠原町、旧下本多町一番丁、旧下本多町二番丁、旧下本多町五番丁の各一部
(旧中本多町・右遊学館高校)
(旧中本多町短丁辺り・左県立工業高校)
本多町3丁目: 旧下本多町四番丁の全部及び旧下本多町一番丁、旧下本多町二番丁、旧下本多町三番丁、旧広坂通、旧茨木町、旧鱗町、旧下欠原町の各一部
(昭和39年には、下本多町の石川県立美術館、別館・石川県立歴史博物館の地は、出羽町になりました。)
(本多町3丁目・北陸放送・石川県立図書館)
下本多町5番丁、6番丁(旧町名が継続する地区)
特別養護老人ホーム金澤五番丁 下本多町5番丁14・金沢ふるさと偉人館 下本多町6番丁18-4・金沢市歌劇座 下本多町6番丁27・北陸電力 下本多町6番丁11・金沢中警察署 下本多町6番丁15−1等の大きな建物と何軒かの一般住居があり、今も旧町名が残っています。
(下本多町6番丁・金沢中署・金沢歌劇座)
(旧町名が残る下本多町6番丁)
≪金澤古蹟志では≫
本多町:上・中・下三町に分つ。この町は、旧藩中は執政国老本多安房守の下邸にて、本多家中と呼べり。明治廃藩置県の際、更に町名を建てて本多町とすと書かれています。
(本多公園・下屋敷跡の一部)
(安政の絵図・赤い道路のところが本多家中町)
本多安房守下邸:延宝の金澤図に、本多安房下屋敷とあり。本多家記に、元和元年(1915)に拝領すると記載されているとあります。改作旧記に載っている寛文11年(1671)5月田井村五兵衛の書付に、先規は石浦村領の内であったが、安房様下屋敷になったとあり、往昔はこの地内、ことごとく石浦の村地で、ゆえに石浦社の別当慈光院・法華宗本行寺など下邸の地内にあり、古来石浦村某寺と書かれて、この上は石浦の村地でありました。ただし三箇屋版(藩政期金澤にあった出版社)の六用集には、慈光院・本行寺の所を安房殿町と載っています。これはその頃の俗称です。元禄・享保頃の記録ともに安房殿町と記載されている。この下邸の惣歩は数十万歩ありと云われた。大身なる藩士の下邸中でも、この下邸は一ヶ所にまとまり、家禄五万石の家人共に、此の地内に居住したので.数ヶ所に区画し、小藩の城下のようであったと云われていました。今(明治時代)本多町と称し、数ケ町に分かれています。(読み下し文)
拙ブログ
本多森の主!!初代本多政重①~③ほか
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12307867414.html
神仏判然令①慈光院
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12182482940.html
本行寺の記事あり
”金沢から伊丹へ“③3兄弟≪幾松と金沢≫
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11081662989.html
≪丁目と番丁≫
丁目というのは:一つの町を番地よりは大きく区分して番号がつけてある時、その番号に添える言語で、地名の専門家は「丁目」は長さの単位の「丁」に由来するという説をあげていますが、多くは、街道や大店が並ぶ往来の多い主要道路に面した町割りの区分に用いられており、これが長さに由来した「丁」を用いた理由と考えられ、藩政時期の旧町名は徳川家康によって慶長の町割りでは一丁四方の街区の通り沿いに町名が付けられ、通り沿いの辻から辻までの1丁(約109m)ごとに「◯◯町◯丁目」という町名が付けられ文字通り1丁目(1丁)でした。街区の内側では丁目を用いた例はほとんどないという。
(地名の専門家今尾慶介: 一般財団法人日本地図センター客員研究員。日本地図学会評議員。「地図と地名」専門部会主査。日野市郷土資料館協議会委員。)
(本多通り、もみの木より右側が、かって金沢一中の校舎がありました)
番丁というのは:城下町特有の呼び方だと云われています。藩政期、原則として武家地は「番丁」、家中町は「何々殿町」と書き、足軽は「組地」、町人の居住地は「町」と書いたと云います。当時、町人は町奉行支配で、武家や足軽は、軍事組織で管理されていたので、金沢では、直臣は住むところは彦三、出羽、長町等々、陪臣は安房殿町、横山家中等と通称で呼ばれていました。したがって、武家地や足軽組地には正式な町名を付ける事もなく、廃藩後、明治5年(1872)11月武家地や足軽組地にも町名が付けられます。藩政期の通称番丁は、城や領内の要所を警備する中級武士の「番士(ばんし)」が住む街区でしたので番丁と書くようになったと云われていたことから維新以後も“番丁”と付けたのだと聞いています。また、町には「田」が付くので、それを嫌い「丁」と書いたという説もあります。
参考文献:「金沢古蹟志」第5編12巻 森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年2月発行 新竪町公民館創立50周年記念誌「しんたて」新竪町公民館 平成15年3月発行
昭和56年7月発行・「石川県の地名」株式会社平凡社 1991年9月発行 「旧町名をさがす会(金澤編)」http://d.hatena.ne.jp/cho0808/