【幸町(旧枝町・旧川岸町・旧上川除町)】
枝町と川岸町は昭和39年(1964)4月の金沢での町名変更に際し“本多通り”の北西側の一画が、市内でも数少ない住居表示未実施地区になり今も昔ながらの町名が残っています。しかし残りの南東側に位置した大半が新しい町名の幸町(さいわいまち)に吸収されます。また、旧川岸町に隣接する旧上川除町は下(北西)の1部が幸町に上(南東)の大部分が菊川2丁目になりました。
(犀川と左旧川岸町)
幸町の呼び方に、全国的には「さいわいちょう」と「さいわいまち」と云う呼び方があります。金沢では「さいわいまち」と呼ぶのが正しいのだそうです。幸町と書く町は全国に約190ヶ所ありますが、金沢のように「さいわいまち」と呼ぶのはその内約15%も満たない数だといいます。石川県では金沢、小松とも「さいわいまち」と呼ばれていますが、金沢では幸町の住民も含めて「さいわいちょう」と呼ぶのが圧倒的の多いようです。如何してなんだろう。語呂が良いから?街に仮名やローマ字表記があまり無いから?“さいわいちょう”と云っても誰も聞き流してしまうから?推測ですが町名が変更になった時、徹底出来なかったのでしょう。しかし、“まち”と呼ぶようになったのは、これも推測ですが、旧町名が百姓町、早道町、新竪町、上川除町、枝町、川岸町等が「まち」と呼ばれていたからなのかもしれない?
郵便番号・住所〒920-0968 石川県 金沢市 幸町
読み方:いしかわけん かなざわし さいわいまち
英語:Saiwaimachi, Kanazawa, Ishikawa920-0968 Japan
緯度 36.55385717、経度 136.6584451、標高 24.9m
(日本郵便のデータをもとにした郵便番号と住所の読み方、およびローマ字・英語表記です。)
(旧枝町)
旧枝町
現存する枝町は、前に書いたブログ(昔のまんまの町名③「川岸町」「枝町」「鱗町」)に登場しますが、この町は以前犀川の河原でしたが、埋め立てた町地になります。町名が変更になった昭和39年(1964)4月以前の枝町は、旧新竪町2丁目の南東に入ったところの裏町で地子町でした。現在も縦横の小路は上(南東)には旧早道町、旧下川除町、下(北西)に行けば杉浦町に繋がっています。文化11年(1811)家数97、うち武家37、肝煎は八郎兵衛、六郎右衛門、組合頭は土山屋義助、錺屋吉右衛門と金沢町絵図名帳にあります。
(桜の並木の上が旧川岸町・桜並木の手前が菊川2丁目)
旧川岸町
川岸町は、昭和39年(1964)4月、枝町と同じで大半が幸町に吸収されました。もとは犀川の河原で、明治4年(1871)に初めて川岸町として立町しますが、安政(1854~60)頃の金沢町絵図に”川岸”の文字の記載があり、そのころにはすでに地子町と足軽の組地になっていることから藩政期は俗称で呼ばれていたと思われます。
拙ブログ
昔のまんまの町名③「川岸町」「枝町」「鱗町」
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12446164694.html
(安政の絵図・川岸のところに薄く川岸と書かれています)
川岸町と室生犀星と堀辰雄
大正12年(1923 )9月1日、午前11時58分、関東大震災が起こり、犀星は金沢に疎開します。大正13年(1924)7月に、当時一高生の堀辰雄が生涯深く師事したと云う室生犀星の金沢川岸町の仮住まいを訪ねます。そして、家の前の犀川で泳いだり、犀星が東京から連れてきていた少年と鮎とるに、犀星に頼まれた犀星の甥小畠貞一やその弟の太田敏種が鮎を追いだすのを助けたりした事が笠森勇氏の「犀星と周辺の文学者」に書かれています。
(手前の家が大正13年の室生犀星の仮住まい・橋は桜橋)
堀辰雄と室生犀星の出会い
室生犀星と堀辰雄の出会いは、大正11年(1922)秋、一高在学中、辰雄の母志氣が府立三中の校長広瀬雄に頼み、校長の隣家に住む室生犀星を紹介して貰い母親に付き添われて田端の室生犀星宅を訪ねたのが初めで、そこから堀辰雄と室生犀星との交わりが始まり室生犀星の紹介で芥川龍之介とも親しくなったといわれています。大正12年(1923)関東大震災が起きる年の5月、東京田端の室生犀星を訪ね。8月には、室生犀星に連れられて初めて軽井沢に滞在しています。その翌年、前出にある金沢の犀星宅を訪れています。
堀辰雄(ほり たつお) 明治37年(1904)12月28日~昭和28年(1953) 5月28日東京生れ。東大国文科卒。府立三中を経て、一高在学中より室生犀星、芥川龍之介の知遇を得ます。昭和5年(1930)、芥川の死に対するショックから生と死と愛をテーマにした「聖家族」を発表し、昭和9年(1934)の「美しい村」、昭和13年(1938)「風立ちぬ」で作家としての地位を確立する。「恢復期」「燃ゆる頼」「麦藁帽子」「旅の絵」「物語の女」「莱徳子」等、フランス文学の伝統をつぐ小説を著す一方で、「かげろふの日記」「大和路・信濃路」等、古典的な日本の美の姿を描き出しています。昭和26年(1951)7月に信濃追分の新居に移ります。昭和28年(1953)5月、病状が悪化し、28日に妻・多恵に看取られ死去した。48歳没。
(赤線内が今の幸町)
旧上川除町
中川除町の上(南東)にあり、今は本多通りをまたいだ上にあり今は幸町になっています。前回紹介した旧早道町の南西に平行し、犀川の堤防の道に沿った旧川岸町の内側のフラットバスが通る道です。「上川除」のバス停は、幸町で藩政期から旧町名が唯一残しています。もとは犀川川除町の一部で地子町。寛文10年(1670)の町会所留書に「才川川除町」とあり、元禄9年(1696)片岡孫作筆禄にも「才川川除町」とある。犀川の川縁の町地はすべて犀川川除町と呼び、川の堤防に家を建てたことに因むと金沢古蹟志に書かれています。寛政7年(1790)2月法然寺付近から下船場付近(今の桜橋辺り)までを犀川上川除町とし、その下(北西)は先に書いた中川除町です。文化8年(1811)の家数81、うち武家51。肝煎は八郎兵衛、組合頭太郎田屋弥三兵衛。安政の頃(1854~60)金沢町絵図では大部分が足軽の組屋敷で残りが地子町。明治4年(1871)に上川除町に改称しました。
(旧上川除町と現在のふらっとバスのバス停)
金沢の奥の深さ感じるには、有名観光スポットを何回も歩くより、幸町界隈の路地裏の道を歩くとよく分ると云う人もいます。細く曲がりくねっていて袋小路もあり迷路みたいになったりしていて、一本間違えると分からなくなったりしますが、川沿いの2本目の通りに上川除という旧町名のバス停があり、そこからフラットバスに乗れば安心です。金沢の昔の雰囲気を味わうには、ここら辺りを徒歩の方がおもしろいかも・・・・。
(この項おわり)
参考文献:「金沢古蹟志」第5編13巻14巻 森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年2月発行 新竪町公民館創立50周年記念誌「しんたて」新竪町公民館 平成15年3月発行
「犀星と周辺の文学者」笠森勇著・北国新聞社 昭和20年12月発行「角川日本地名大辞典」株式会社角川書店 昭和56年7月発行・「石川県の地名」株式会社平凡社 1991年9月発行 「旧町名をさがす会(金澤編)」http://d.hatena.ne.jp/cho0808/