作庭記と兼六園-下-⑫
【兼六園】37、一、雑部 楼・閣の説明《原文》唐人が家にかならず楼閣あり。高楼はさることにて、うちまかせては、軒みじかさを楼となづけ、軒長を閣となづく。楼は月をみむがため、閣はすすしからしめむがためなり。軒長屋は夏すずしく、冬あたたかなるゆへなり。 正応第二夏林鐘廿七朝徒然之余披見訖 愚老(花押) 後京極殿御書重宝也可秘々々(花押) (兼六園の月・これは合成写真)...
View Article昔のまんまの町名②「水溜町」「新竪町」「杉浦町」
【水溜町・新竪町・杉浦町】 水溜町元禄3年(1690)金沢火災記に、鱗町・水溜町と並べ載っています。同9年(1696)の地子町肝煎裁許附に、水溜堀町とあり。昔はこの地に水溜堀があり、そのことから町名となりました。 (水溜町)...
View Article金沢市幸町の旧町名②旧山田屋小路・旧主馬町・旧早道町
【幸町(旧山田屋小路・旧主馬町・旧早道町)】旧山田屋小路旧山田屋小路は明治5年(1872)から昭和39年(1964)4月1日の町名変更まで、今の石川県庁幸町庁舎辺りに1番丁から3番丁までがありました。昔のまんまの町名③「川岸町」「枝町」「鱗町」にも書きましたが、藩政時代、山田屋という魚屋が数代に渡り、住んでいたことから、この名がついたと云われています。 (旧山田屋小路にある石川県幸町庁舎)...
View Article金沢市幸町の旧町名③旧枝町・旧川岸町・旧上川除町
【幸町(旧枝町・旧川岸町・旧上川除町)】枝町と川岸町は昭和39年(1964)4月の金沢での町名変更に際し“本多通り”の北西側の一画が、市内でも数少ない住居表示未実施地区になり今も昔ながらの町名が残っています。しかし残りの南東側に位置した大半が新しい町名の幸町(さいわいまち)に吸収されます。また、旧川岸町に隣接する旧上川除町は下(北西)の1部が幸町に上(南東)の大部分が菊川2丁目になりました。...
View Article本多町。大乗寺坂と幻の大乗寺
【本多町・大乗寺坂】大乗寺坂は、本多町から小立野台の本多の森ホール辺りに上る坂道です。道幅は狭く、階段になっていて車は通れませんが、階段の脇には狭いながらも段のないスロープがあり、自転車も通ることができます。いつも私は、坂が急で幅が狭いので自転車を降りて押してと云うより引っ張って下ります。...
View Article加賀藩御料理人伝説②舟木伝内包早(その三)
【加賀藩 金沢・江戸】舟木伝内包早は、宝永5年(1708)から仕えていた綱紀公の子利章が、宝永8年(1711)9月に大聖寺藩4代目を襲封し同行しますが、翌月5代藩主前田綱紀公の「御膳方」を仰せ付かり、綱紀公がお亡くなりになる享保9年(1724)5月9日までつとめられています。当時、綱紀公は67歳でした。 (加賀藩江戸屋敷の赤門)...
View Article加賀藩御料理人伝説③舟木長左衛門安信
【加賀藩 金沢 江戸 京】長左衛門安信は、2代目舟木伝内包早の次男で、御料理人に召し出されたのは、父包早が54歳の元文4年(1739)12月でした。七人扶持で当時の御料理人の子弟が召し出されるときにだされる定禄です。因みに御料理人の子弟以外は五人扶持でした。桜田御前様:綱紀公のご息女節子、浅野藩の5代松平安芸守吉長の正室...
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