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Channel: 市民が見つける金沢再発見
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昔のままの町名「竪町」「大工町」「池田町」

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【竪町・大工町・池田町】

新竪町小学校校下(区)では“道”“町名”も昔の“まんま”です。金沢市では、昭和30年代後半から40年にかけて昔ながらの町名が消えてしまいました。50数年前、東京オリンピックの開催も決まり、国際化が叫ばれ、欧米の風習を取り入れて欧米に追いつこうという意識が強まり、見栄も手伝ったのか国の指導者や中央官庁では、昔ながらの細かく分けられた町は、非合理で旧弊だと思えたのか、それを解消することが急務と感じたのか、さらに郵便配達の合理化にも繋がると言い出し、町を大きな区画で割るための住居表示変更が実施されます。新もん好きの金沢に矛先が向けられ実験材料にされます。

 

(金沢では、昔の城下町の名残か、今も小学校の校区の事を校下と呼ばれています。)

 

私はその頃、金沢に居なくて当時の事情はよく分りませんが、昔の町名を残っている竪町小学校校下は、校下ぐるみで抵抗したのか?町の有力者が役所に噛み付いたのでしょうか??観音町のように役所が気付かなくて一部町名が残ってしまった所もありますが、あれから半世紀、平成3年(1991)金沢の経営者団体の金沢経済同友会旧町名の復活が提言され、平成11年(1999101日、主計町に始まり平成30年(2018111日の金石通町、金石下本町、金石味噌屋町の復活まで市内の14の町名が復活し、今年は観音町が復活する予定ですが、何れも昔の町割りと今の区域割りの違いもあり、土地までは昔ながらとはいかないようです。

 

 

旧町名復活-金沢

https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=4&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjD2br1rOzgAhUhG6YKHTOnDUwQFjADegQIBxAB&url=https%3A%2F%2Fwww4.city.kanazawa.lg.jp%2F22050%2Fkyuchomei%2Findex.html&usg=AOvVaw2ZxhyqH5buFqblo5l4BoRG

 

昭和37年(1962)金沢市に933町あった町名が約520町になりますが、やり過ぎ!!昭和41年(196611月、当時の内閣総理大臣佐藤榮作は「複雑な町名などを整理するための自治省の行政指導が、部分的には行き過ぎもあるようなので、町名変更に関しては自治省からあまりに強い圧力的なものはかけないよう」に指示し、それを受けて当時の官房長官愛知揆一が記者会見で「お役所の画一的な運用で歴史的、文化的な町名が失われることのないよう自治省に注意を促す」と言ったという、以後、全国的には熱が醒めたという話もあります。

 

(昭和40年代に開通した犀川大通り・片町交差点から鱗町の抜け涌波方面へ)

 

拙ブログ

金沢・観音町復活①現在は!!

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12368515875.html

 

(竪町通り)

 

竪町

この町は、旧藩中は本町の一町で、新竪町は地子町でした。新竪町に対し俗に本竪町とも呼ばれていました。竪町の旧名は竪河原町と称しますが、後に略して竪町と呼ばれるようになったといいます。記録によると、元禄3年(1690316日新竪町より出火、新竪町・本竪町・魚屋町(片町から河原町入口まで、幕末から明治初期は亀澤町とも)等焼失。とあり。本竪町と呼べるも元禄以前より呼ばれていたことが分ります。藩政初期、犀川2筋に流れ、1筋は今香林坊際の小橋の下を流れ、深く舟も入ったとあります。この頃、3代利常公の命により坂井就安が金沢市中を広げようとして、犀川の上を掘り、一瀬に埋め立てられたのが河原町です。今の片町・河原町・古寺町の地は、昔はすべて河原でした。竪町も河原で、一瀬になり共に町地となりました。この町は犀川の川瀬に添うて、竪に付きたる町地なので竪河原町と呼ばれました。

 

就安は小瀬甫庵(大閤記・信長記の筆者)の長男で、元和元年に利常公より二百石を賜はり、寛永15年(1638)から犀川を一瀬になして中嶋を町地とし、元和・寛永の頃、初めて河原町を造成しました。下の図は寛文7年(1667)の絵図に現町名を書き込みました。)

 

(竪町の大工町入口)

(大工町の町家)

 

大工町

この町は藩政初期、御大工が邸地を賜ったという拝領地でした。初期には一町、大工職のみが居住しますが、子孫が絶えた家や零落して家屋を壊し地所を指上げて退去した者などの邸地を地子地として、大工以外に職の者も入り交じり居住したので、廃藩まで大工肝煎の裁許の者地子肝煎の者の両様で支配されていました。藩政期を通しての大工と諸職人の居住者の対比は分りませんが、護国公年譜に書かれている、享保18年(1733426日の犀川川除町より出火で大工町は110軒類焼して、53軒が大工肝煎支配とあり、宝暦9年(17594月の火災のも一町ことごとく焼失しましが、それ以後の大工肝煎支配の邸地と地子肝煎支配邸地では、やや地子肝煎支配に属する邸地が多くなったと云う記録があります。昭和41年より、大工町の西片側(長町小学校校下)が片町一丁目に編入され今は東片側(新竪町校下)を大工町と呼ばれています。

 

 

池田町12番丁・3番丁・4番丁・立丁(鉄砲町他)

大工町の横小路、今の池田町1番丁・池田町2番丁。1番丁は、旧藩中先手組鉄砲足軽の組地でした。2番丁は、割場附の組地となっていましたが、元は1番丁・2番丁共に先手組足軽の組地で、萬治2年(165911月の居屋敷歩数定書に、50歩御鉄砲之者其の外掃除坊主・御餌指。とあり、御鉄砲之者と云うのは、先手足軽鉄砲組の総称で、それゆえこの組地は昔より鉄砲町と呼んだそうです。明治4年(1871)鉄砲町・大工町横町・竪町・池田屋小路の一部をもって立てられまいした。

 

(池田町の通り)

 

金沢の町地

本 町(ほんまち) 南町、西町、金屋町など、古い由緒ある町で、地子銀(土地に対する税)は、免除されたが、夫役(ぶやく)と役銀(やくぎん)を課せられた。町の格付けでは、最上位に位置づけられた。

七ケ所(しちかしょ) 町の格付けでは、本町の次に位置づけられ、夫銀(ぶぎん)が課せられた。石浦町、大工町など、七ヶ所あった。後に七ヶ所以上になっても七ヶ所と呼ばれた 。

地子町(じしまち) 地子銀(土地に対する税)を払う町のことで、金沢の町のほとんどは、地子町であった。

 

(つづく)

 

参考文献:「金沢古蹟志」第514巻・15巻 森田柿園著 金沢文化協会 昭和92月発行


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