【兼六園】
37、一、雑部 楼・閣の説明
《原文》唐人が家にかならず楼閣あり。高楼はさることにて、うちまかせては、軒みじかさを楼となづけ、軒長を閣となづく。楼は月をみむがため、閣はすすしからしめむがためなり。軒長屋は夏すずしく、冬あたたかなるゆへなり。
正応第二夏林鐘廿七朝徒然之余披見訖
愚老(花押)
後京極殿御書
重宝也可秘々々
(花押)
(兼六園の月・これは合成写真)
(訳:唐人の家には必ず楼閣がある。高楼は別として一般には軒の短いのを楼と名づけ、簷(のき)の長いのを閣と名づける。楼は月を見るのに都合がよいようにしたもの、閣は夏に陽光をさえぎって涼しいようにしたもの、簷(のき)の長い屋根は夏涼しく、冬は暖かであるからです。)
正応第二(1289)年夏、6月27日の朝、何するとはなく
愚老(花押)
後京極殿御書
心にとめて大切に取り扱うべし
秘密にせよ 秘密にせよ
(花押)
楼 (ロウ)二階建ての建物。たかどの。 「楼閣・楼門・楼上・玉楼・青楼・鐘楼・高楼・摩天楼・蜃気楼(しんきろう)・登楼」 ものみのやぐら。やぐら。 「望楼」
閣 (カク) 御殿・見晴らし台など、高く構えた建物。「金閣・高閣・仏閣・楼閣・天守閣」
(竹澤御殿の平面図)
兼六園では
かっては、兼六園の地に竹澤御殿があり、平面図は残っていますが、立面や姿図がどうなっていたのかよく分りません。現在は大きな建物は竹澤御殿の一部を活用した12代斉広公の正室真龍院のご隠居所「巽御殿」を13代斉泰公によって建てられますが、後に「成巽閣」と名称が変更されました。簷(のき)の長いのを「閣」ということからか?「作庭記」に従ったのかどうか分りませんが?「閣」は実在しています。竹澤御殿の月は、書院から七福神山が美しく、後に栄螺山や見晴らし台からのほうが美しく「楼」は不要だったのかも・・・。
(成巽閣)
おわりに
「作庭記」の目指すところは、庭園づくり心得、作庭の極意でしょう。庭園の造形を達成する心構えや技法についての核心をついた言葉が明らかにしてくれます。まさに庭園づくりの指針としての奥深い理論書で、作り方の指南書。「作庭記」がつくられた時代の庭園の使われ方、どのような目的で庭園がつくられたかについての直接的な証言はみられませんが、原文や訳文、解説を書かれた先人の研究に触れることで、おぼろげながら「作庭記」の肝が見えるように思えてきます。「作庭記」には、日本に生まれた土着の作庭技術と思想と大陸から伝えられた思想や技術が付加されて確立されたもので、日本の作庭初期「天然に学び、自然に従う」を基調にしながら「風情」という主体的な造形美学をもっているのが特徴だと云われています。
参考:「作庭記」と日本の庭園 白幡洋一郎編 平成26年(2014)3月31日(株)思文閣出版
(霞ヶ池)
「兼六園全史」の”兼六園と作庭記“の筆者山森青硯(専吉)氏について
明治41年2月 金沢市横伝馬町生まれ、大正15年3月 石川県立金沢一中卒業、昭和13年中支派遣輸送指揮官拝命 昭和31年石川郷土史学会入会 昭和49年9月石川郷土史学会常任幹事就任、昭和51年12月「兼六園全史」編集委員長の就任 昭和59年6月金沢市文化活動賞を受賞 昭和61年石川県文化活動奨励賞を受賞。著作多数 平成3年2月7日没
(楼と月・この写真は現実では,あい得ない)
私なりの「作庭記と兼六園」が、どうにか終回を迎えました。大した努力も観察もなく、原文、訳文はホボ丸写しで、肝心の“兼六園では”も殆どが「兼六園全史」”兼六園と作庭記“の筆者山森青硯氏に頼りっきりでした。最も本編は、兼六園と作庭記の関係を書くことが目的だったのでそれでも良かったのですが、後半に入ると私自身が、これではと思い、勝手に焦り中途半端な知識を書くはめになり、浅学菲才を晒してしまい申し分けなく思っています。
(おわり)
参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所 兼六園観光協会 昭和51年12月発行「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房 2006年12月発行 「兼六園歳時記」下郷稔著・能登印刷出版部 平成5年3月発行 「図解庭師が読みとく作庭記」小埜雅章著 (株)学芸社 2008年5月 石川郷土史学会々誌 金沢城・兼六園研究会々誌さくらさくら ほか