【水溜町・新竪町・杉浦町】
水溜町
元禄3年(1690)金沢火災記に、鱗町・水溜町と並べ載っています。同9年(1696)の地子町肝煎裁許附に、水溜堀町とあり。昔はこの地に水溜堀があり、そのことから町名となりました。
(水溜町)
≪水溜御歩町≫
改作所旧記に、新竪町御徒町ともあり。災異記に、元禄3(1690)年3月17日丑刻、金沢新竪町後の御徒町高橋儀兵衛より出火、新竪町・油車・本竪町・河原町等焼失とあり。武家混目集には、3月16日夜新竪町御歩町高橋儀兵衛宅より出火、巽風烈敷(激しい南東風)で、新竪町・本竪町・魚屋町・水車・本多家下屋敷等が延焼します。油車御歩町と混ずるため、水溜御歩町と呼んだという。この地もそのかみ歩士の邸地でした。現在は水溜町と称しています。
(水溜町の石標)
(寛文7年(1667)の絵図(石川県立図書館蔵)・水溜堀)
水溜堀跡
寛文の金沢図を見ると、今云う水溜町より新竪町の裏、杉浦町の辺りにかけ、数十間の間溜堀があり寛文や延宝の絵図に載っています。
(新竪町の入口)
新竪町
この町は竪町の上にあり、竪町より後(あと)に町地になったので、新竪町と呼んそうです。この地も昔は河原で竪河原町とひとしく、河原を埋めて町地とし、後(のち)に地子町となり、元禄9年の地子町肝煎裁許附に、新竪町の註として、九里より上、九里より下と裁許を分けらています。改作所旧記に寛文12年の書札に、新立町と載せてあり、この時代より既に新竪町の町名を建てています。
(九里家の位置・犀川・新竪町界隈の天保期絵図、小西裕太氏作成図より)
≪九里覚右衛門旧邸≫
延宝の金沢図に、九里覚右衛門の記載によると、元禄6年(1693)の士帳に、九里甚左衛門新竪町に見え、享保9年(1724)の士帳に1500石九里甚左衛門新竪町と書かれ、明治維新廃藩の際まで、新竪町の広見に代々居住したが、家屋を買却して退去しました。
新竪町の広見
改作所旧記には、昔、枝町は穢多の居住地で、広見と証す地で、その頃三味の荼毘所でした。この辺りはおいおい町地となり、先住者は他に移され地子町となり枝町となります。三味の焼場跡は空き地とし、その後広見と呼び、家屋を建てなかったという。
(天狗中田の本店)
通称天狗の広見
今は、昭和46年(1971)に“犀川大通り”が開通し、肉の天狗中田の本店前に少し残りますが、私が子供の頃、ここが竪町と新竪町を分けていました。
(天狗中田本店店頭・かって広見)
≪新竪町徳栄寺≫
浄土真宗東方の道場。世間では土蔵御坊と呼ぶ。寺記には、開基最静は加質国河北郡大衆免般若院の僧で、寛正元年(1460)6月本願寺に行き、蓮如上人の弟子となり、名を栄空と改め、同年七月般若院を徳仁寺と改号す。しかるに天正年中の兵乱のため破却せられ、寛永元年(1624)に近衛家の二男覚順当地に下向し、この廃寺を再興し、本山より更に寺号を申請け、徳栄寺と号しらとあります。旧伝には、寛永年中に当寺再興の時、浅野川味噌蔵町に味噌蔵を廃止したので、この蔵の古材木を買入れ、これで本堂を建てたという。それ以来、世間では土蔵御坊と称したと呼ばれるようになったと伝えられていますが、以後、災異記に、延享3年(1718)6月13日新竪町出火で徳栄寺も類焼したと云います。現在の本堂は味噌蔵の古材木かどうか・・・?私は見ていないので何ともえませんが・・・?
(徳栄寺)
(寛文7年(1667)の絵図)
≪新竪町名願寺≫
浄土真宗東方の道場。由来書に、摂津の人楠正房と云ふ人の長男房之助と云ふ者出家となり、慶順と改称し、文禄元年(1592)金沢河原町で創立し、寺号を名願寺と称し、天台宗の寺院となるが、翌二年(1593)改宗して、浄土真宗の道場としたとあります。
(名願寺は、大槻内蔵允の旦那寺で、今寺内の鐘楼堂の鐘は、大槻が寄附したと云われています。内蔵允が養父大槻長兵衛は、割場附足軽にて、長兵衛が宅は新竪町のうしろなる町附足額組屋敷の辺りで、内臓允も此の宅にて出生。長兵衛は名願寺の門徒で、内蔵允盛運の頃は、名願寺は檀那寺をことさら取立て、堂宇の修繕から釣鐘以下種々寄附の物多く、合力米も過分に附け置いたといいます。寛延元年(1748)内蔵允、五箇山の禁固中に自害。重罪の者のため死骸を五箇山より引寄せられ、塩詰めにし、門徒寺の縁故をから名願寺へ預けられ、本堂の下ヘ埋めたと云われていますが、今は・・・?)
杉浦町
元禄6年(1693)の士帳に、新竪町・杉浦町。とあり、元禄以前より町名が知られていたようです。延宝の金沢図に、この辺は杉浦仁右衛門預り足軽と記載されています。その上(かみ)杉浦氏の預り足軽の組地で、杉浦町とは呼んだようです。萬治2年(1659)11月居屋敷定書に、与カ侍並足軽・御弓之者下屋敷、寄親・組頭え打渡し、頭よりその組中へ割符致すべく相渡すとあり、この定書を見れば、この組地も杉浦仁右衛門の時初めて組地を請取り、組子の者共へいたし渡し、共の時より組頭の苗字を付け杉浦町とは呼びたようです。一説には、現在、石引2丁目の小立野安藤町とこの杉浦町は、軽卒の組地にて両町共に組頭の苗字を町名に呼ぶ。安藤町・杉浦町などの苗字を以て町名としたのは、その組子の組地を呼ぶ例で、今、本多町・里見町・茨木町などの苗字を町名にしたのは後世の事で、古く足軽組地をそのまま町名としたのは、はなはだ稀であります。
(杉浦町)
(杉浦譜には、杉浦仁右衛門守成の祖父は安藤伊賀守範俊といい、美濃国西方河戸の城主でした。父は図書某と云い、初め小早川秀秋に、慶長8年(1608)池田輝政に仕え、二千石を領す。その後、寛永14年(1637)前田利常公に召出され800石を賜はります。実は池田家に仕えていた頃、杉浦仁右衛門は人を討ち立退いたという、仇敵を持てば江戸詰も致しかね、身を隠すには国に置くのがよいとし金沢で仕えたという。池田家に仕えた頃、苗字安藤を杉浦と改めたのは、身を隠すためだったようです。延宝5年(1676)免ぜられ、翌6年(1677)没す。)
杉浦氏の元の苗字安藤と小立野安藤町の安藤長左衛門は、祖も違い同姓は偶然か?
(つづく)
参考文献:「金沢古蹟志」第5編14巻 森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年2月発行