Quantcast
Channel: 市民が見つける金沢再発見
Viewing all articles
Browse latest Browse all 876

昔のまんまの町名③「川岸町」「枝町」「鱗町」

$
0
0

【川岸町・枝町・鱗町】

川岸町

川岸町は、明治4年(1872)に町立てされた明治維新後の新しい町です。それ以前は通称で呼ばれていたと云う犀川右岸(東岸)の川岸の町で、昭和39(1964)に住居表示変更が実施される以前は本多町~新竪町から桜橋につづく道“本多通り”の両側にありましたが、昭和39年(1964)の金沢での町名変更に際し“本多通り”北西の一画が、旧市街地では数少ない住居表示未実施地区になり今も昔ながらの町名が残っています。しかし、従来の川岸町の大半が本多通り南東側だったので、住居表示変更が実施された際、新竪町2丁目、山田屋小路、早道町、百姓町の全て枝町と川岸町の大半幸町なり旧町名が消滅します。川岸町は、本多通りの北西側に一部が残り、現在、川岸町の町名の所には居住は無く駐車場と犀川河岸の町となりました。今は緑地の金沢市川岸町47番地には、平成21(2009)6月末日までは国民生活金融公庫(旧国民金融公庫)金沢支店のビルがありましたが、政府系公庫の統合とともに建物は解体され誰もいなくなりました。

 

(駐車場だけの現在の川岸町)

(桜橋より犀川大橋方面)

 

枝町

元禄9年(1696)の地子町肝煎裁許附に枝町とすでにあります。この町は新竪町の中程、新竪町広見(九里家前)の裏で、杉浦町の上(かみ)、この地辺り昔は河原で、この地は穢多の居住地でした。後に町地となり穢多町と呼んだそうですが、穢多の文字を嫌い、枝町と変更します。現在、枝町は、住民数ゼロの川岸町同様、桜橋へと続く“本多通り”を隔てた北西側の区域に、現在、空き地と他1軒分のスペースだけが掛かっていたため、消滅を免れました。残りの南東側に位置した大半の町域は、すべて幸町となってしまいました。

 

(現在の枝町)

 

(木蔵屋敷町)

元録9年(1696)の地子町肝煎裁許附に、枝町の次に木蔵屋敷町と云う町名を載っています。此の町名が絶えたのは、それより後で所見はありません。国事昌披問答にも、新竪町・枝町・鱗町・犀川川除町とありますが、木蔵屋敷町という町名は記載されていません。木蔵屋敷と云うのは、この地に材木蔵があり町名として呼ばれていたものか、また、その蔵跡を地子地とし、家屋を建て、木蔵屋敷町とは呼ばれていたのでしょうか・・・?

 

 

(本多通り・新竪町3丁目交差点より桜橋方面)

 

番外編:昭和39年町名表示変更で幸町になり、惜しまれる近隣の町名。山田屋小路の角家に、山田屋某と云う魚屋があり、数代ここに居住したという。それ故に世間の人は山田屋小路と呼んだという。しかし、この小路の上(かみ)の新竪町通り筋(2丁目か?)の家へ移転して魚鳥の商売を続けたという・・・。(附木屋小路)この小路は、山田屋小路の上(かみ)、百姓町(今の幸町)への往来道で、従前はこの小路の角家に附木を商売とする者が居住し、昔より数代相続したもので、この小路を附木屋小路と呼んだ。附木と云うのは硫黄を付したる薄板で、火を移すため以前より毎戸必要はもので、誰も彼もが買いに来が、今は平附木(マッチ代わりか?)が盛んになり、この地にいた附木商売人も家を売却し退去しました。

 

(Googlemapより川岸町・枝町・幸町)

 

鱗町

元禄3年(1690)の火災記に、鱗町が出て来ます。同6年の士帳に、新立町末うろこ町とあり。三箇屋版六用集に妙玄寺犀川うろこ町とあります。ただし元禄9年(1696)の地子肝煎裁許附には、犀川荒町うろこ町とあり。この時代はいろこ町とも呼ばれていたらしく、この町名の起源はよく分りませんが、どうも、この地に魚商が多く、鱗がよく見受けられたことによるとの伝承もあります。この町は犀川荒(新)町の上(かみ)で、倉月用水の川縁より、百姓町への往来で片原町の町家を呼んでいたようです。明治4年(18724月町名改革の時より・隣町の荒町を合併して鱗町と称しました。昭和39年(1964)の住居表示変更の実施で、以前の鱗町の一部(本多通り南東側)が 幸町と本多町3丁目になりました。

 

(鱗町の石柱)

 

(犀川荒町)

元禄9年(1696)の地子肝前裁許附に、犀川荒町・いろこ町・牛右衛門橋町と並び載っています。荒町と云ふ町名は、木の新保と両所にあり、この地のことを犀川荒町と呼んでいました。あるいは竪町荒町とも称しました。荒町の名は新町と云う意味で、昔はこの地は倉月用水の河岸の空き地で、人家も無かったと云います。やがて家屋も建ち町名を荒町と呼ぶようになりました。この町地は昔より水害も多く、変異記に、寛保3年(1743622日朝大雨、犀川荒町、百姓町の水害が載っています。また、延宝5年(167765日にも百姓町、荒町、新立(竪)町の水害の記事もあります。この後も犀川洪水の際、水害が度々あったそうです。但し、この地は早くより繁昌したそうで、七ヶ所で半役の町地とします。七ヶ所は、旧藩では本町の次ぐ格上の町で、町役の人夫銀を割り当てる定めがありました。明治の廃藩置県に際、戸籍編成の時、荒町の名を廃し、町続の鱗町に合併します。

 

(鱗町交差点)

 

≪鱗橋≫

鱗橋は、現在は暗渠になっていますが、金溜橋梁記によると、うろこ橋うろこ町とあり。この橋は玄蕃川(現油瀬木から鱗町を流れる今の鞍月用水)と倉月用水(現勘太郎川)との落合に架かる往来橋で、犀川の分水で玄蕃川は近くよりの分水で、毎日、清潔にて水は澄み。倉月用水は、辰己用水の分水で、はなはだだ濁り、この橋の下で、清濁二水を落合うことから、清濁常に振分るように見えことから、俗に澄橋と雅名がついていました。石川郡木滑川村尾添村との間の川橋を、往古より濁澄橋と呼ばれているのと橋名と等しと金澤古蹟志に書かれています。

 

(註:石川郡木滑川村尾添村は、現在の白山市尾添(はくさんしおぞ)

 

(つづく)

 

参考文献::「金沢古蹟志」第51314巻 森田柿園著 金沢文化協会 昭和92月発行 旧町名をさがす会(金澤編)http://d.hatena.ne.jp/cho0808/


Viewing all articles
Browse latest Browse all 876

Trending Articles