【十三間町・十三間町中丁・中川除町】
十三間町
元禄9年(1696)の地子町肝煎裁許附には、十九間町(現片町一丁目)、十三間町と並び載っています。国事昌披問答にも、大工町、十九間町、十三間町と有り、十三間町の町名は、十三軒の家が有ったからとか十三軒の紺屋があったからと云う説もあり、紺屋(梅染)の元祖黒梅屋の子孫も代々十三間町の住人だという。昔は十九間町の通り筋をのみ十三間町と称した。明治4年(1872)4月戸籍編成以後は、その裏町までもすべて十三間町と称し、その戸数数十戸に及び、現在、町内会は通称上町(犀和会)と通称下町(鳳親会)として活動なさっているらしい。この町名は十間町あるいは三間道などの町名と同じく、もとは町内の戸数によって呼はれたそうで、十九軒町・十三軒町と書くべきだった事なのかも・・・。
国事昌披問答: 著者: 邑巷軒蒙鳩子 著・ 出版者石川県図書館協会 出版年月日昭和6年( 1931)
(今の片町1丁目・藩政期は一九間町・昭和の住居表示変更まで十三間町)
(十三間町の通り・手前が大工町)
(十三間町妙源寺)
浄土真宗東方の道場。由来書に、当寺の草創は寛永17年(1640)。開基僧実善は、加賀国能美郡小松寺町真言宗眞行寺の住僧の時、文明元年(1469)本願寺第八世蓮如上人に帰依し、改宗して弟子となります。寛永17年(1640)金沢へ移転し、寺号を本願寺へ申し出て、妙源寺と授けます。ただし旧記等に伝来の記述はありませんが、わずかに伝承するのみという。現在は、聞くところのよると50数年前に転居し、今は病院の駐車場になっています。
(病院の駐車場)
(林檎名産)
金沢の昔のことわざに、長氏の林檎(りんご)・村井氏の麴(こうじ)と云うのがあります。林檎(りんご)は長町の長氏の下屋敷のものが名産といわれますが、実は、十三間町辺りの物が一番だったと云われていました。それは実は大きく味も良かったと云います。だいたい林檎は水気がある湿地は良く無くて、地下に石が多く水分を保たない土地が良く、十三間町辺りは昔犀川の河中を埋め、町地としたので、上土のみで地下はことごとく石原。水分が早く引けるので林檎を植えのるに良かったそうです。
(石浦神社氏子地図・赤丸は朱免野村)
≪朱免野村跡≫
朱免野村は石浦郷七ヶ村の一村で、昔犀川橋の近辺にあり。今十三間町の辺、すなわちその村跡という。石浦神社に伝来する慶長11年(1606)年8月10日石浦七ヶ村氏子の連判状に、朱免野村八左衛門と載っていて、8月23日の訴訟連判状に、石浦七ヶ村の内観音堂のむかうなるしめの村は、田畠過分の高にて御座候を、この近年、河くづれにより、村絶える失せたと記載があります。寛永8年(1631)の石浦神社氏子地図を見ると、大工町と新竪町との後地に朱免野村地と載っています。今の竪町・新竪町・大工町・十三間町の地辺は、すべて朱免野の村地で、村落は十三間町辺りあり、慶長11年(1606)の訴状に、観音堂の向うの朱免野村とは記載されています。観音堂は御前坂(現北陸電力横の坂)を上ると慈光院(石浦神社・今の鈴木大拙館の裏)の観音堂のことで、慶長11年(1606)に近い年に川崩で一村が絶滅したと記載されています。慶長の初頃まで村落がありました。明和2年(1765)6月の石浦慈光院の由緒書に、石浦郷七ヶ村之内朱免野村は犀川橋近辺に有ったとあり、川崩れのおり、犀川の河下朱免野村の地へ引き移ったと書かれています。これは全く寺僧の誤解で、川下の示野村は大野庄内の村落で、石浦郷の朱免野村と違うという。大野庄の示野村は、藩阻利家公、天正14年正月22日佐那武神明の氏子村付の印書に、すでに示野と載せられていて、石浦郷の朱免野村とは別村であったことが分ります。示野はしめのと呼び、朱免野はしゅめのと呼んだそうです。かって菊川の主馬町と呼ぶ町地は、往古朱免野村の村跡で、村落この地辺にあるのは、朱免野町と云うのを、後の人が主馬町と書いたと云う説もありますが、主馬町は昔本庄主馬と云う人の邸地あり町名としたと云われていて、主馬殿町とも呼んでいます。また朱免野村は、寛永8年(1631)の石浦神社氏子地図に、大工町と新竪町とのうしろ地に朱免野村地と記載があり、今、云う十三間町辺りに村落があり、主馬町の地とはかなり隔るのみならず、主馬町辺は百姓町の地継きで、石浦の村地である事は知られけり?と森田柿園を悩ませています。
(十三間町中丁)
十三間町中丁
藩政期、寛文7年(1667)の絵図によると足軽組地で道路挟み北東側に明組足軽30人(延宝図では10人)、反対側が足軽20人(延宝図では16人)と記載され、明治4年(1872)4月戸籍編成以後は十三間町中丁と呼ばれるようになります。昭和30年代(1955~1964)前半までは道路は未舗装で道幅は狭く、大工町への出口は特に狭く当時、売り出だされた小型3輪(ダイハツのミゼットなど)だけしか通れず、タクシーは勿論大型トラックは町内へは進入できず、タクシーは十三間町の下から入りバックで帰り、大型トラックは大工町で駐車し荷物を運んだそうです。また、町内には50軒以上の家がビッシリ建ち並んでいました。しかし、平成13年(2001)7月には一戸建ての家が16軒に減少しと書かれています。
(「しんたて」の十三間町中丁町会(執筆橋谷毅)を参考にしました。)
(中川除町)
中川除町(犀川川除町)
金沢町会所留記の寛文10年(1670)90歳の書上帳に、92歳才川川除町牢人広瀬茂左衛門母普照と記載あり、元禄9年(1696)の地子町肝煎裁許附に、犀川川除町とあり犀川の川縁の町地をすべて川除町と呼ぶ地子町で、川縁の堤防に家が建ち並び住んでいました。町会所留記に、犀川上川除町(現菊川)は法然寺辺りより下舟場越(現桜橋辺り)まで、犀川中川除町は下舟場辺りより大橋辺りまで、犀川下川除町は大橋辺りより宝久寺(現犀川神社)越まで、犀川新川除町は宝久寺(現犀川神社)辺り大豆田口町端まで、これらの町名は、寛政7年(1796)よりと聞きます。明治4年(1871)から昭和39年(1964)まで上川除町・中川除町・下川除町・新川除町の4町に分けられ、現在は中川除町だけが残っています。
(赤い囲いの中は中川除町)
P.S
平成15年(2003)発行の新竪公民館創立50年記念誌「しんたて」のコラム4に、以下の事が書かれているので、一部引用して転記します。昭和37年(1962)5月、「住居表示に関する法律」が施行され、本多通り(桜橋~北陸電力間)より以東南の百姓町、山田小路、新竪町1丁目・2丁目・3丁目の一部。枝町、早道町、川岸町等が「幸町」と名称が変更になり、茨木町の一部や下本多町の一部が本多町3丁目と名称が変わった。校下以西については、金沢市より住居表示変更の具体案が示され強い要請が行なわれたが、当時の新竪町校下在住の末岡尚市議会議員が強く反対し、区画変更が実施されなかった。市より示された内容は、片町から十三間町通りを上がり、十三間町中丁、池田町3、4番丁を経て犀川大通りを横断し、竪町、里見町を通り、柿木畠・片町を結ぶ区間を「片町一丁目」とする案であった。これは街区方式と呼ばれ、藩政時代から続いた道路方式には馴染まないことや、校下の分断によって町会が分割され、今まで続いてきた町会の連帯意識が崩れてしまう恐れもあった。今にして思えば、区画変更に反対し結果として旧町名が残ったことは、先見の明があったと言わざるを得ない。(執筆平田寛久)とあり、これにより、新竪町校下に金沢の歴史的、文化的な町名の一部が残りました。
(天保の図より)
(つづく)
参考文献::「金沢古蹟志」第5編14巻・15巻 森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年2月発行・新竪公民館創立50年記念誌「しんたて」金沢市新竪町公民館 平成15年3月発行