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昔のまんまの町名⑤「油車」「里見町」「茨木町」

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【油車・里見町・茨木町】

油車

行灯や灯明の藩政期、油屋は重要な商売で、この辺りに竪町の油屋(多田源兵衛)が水車を構えたのが初めと云われています。油屋としては大正初期まで水車を使って菜種油をしぼっていたそうですが、水車は、油屋だけではなく製粉や精米にも使われ、大正の頃までこの辺りに3つや4つの水車が回っていたそうです。しかし、電力に押され昭和156年を最後に水車は消えてしまったそうです。(昭和50年頃まで水車があったと知人が教えてくれました。)

 

(今の油車界隈)

 

≪多田源兵衛の先祖は一向一揆の大将河合藤左衛門 宣久(多田五郎政晴)≫

河合藤左衛門 宣久(生年不詳~享禄4年(1531)は、戦国時代前期の加賀一向一揆の大将。通称は藤左衛門で、子は右京亮虎春。摂津の清和天皇源氏の流れを汲む多田氏の出身でした。由緒書には「姓は源氏、摂津国多田家の氏族で、103代後土御門院天皇の御代文明中越前に下り、朝倉家に仕え、その後禄を辞して加賀国能美郡河合村(現白山市河合町・旧鳥越村の手取川本流筋の村)に来住して河合藤左衛門宣久と改名、遂に父子郷士となる。その子河合右京亮虎春は、後に河合藤左衛門と改称し、倉ヶ嶽麓の石川郡坪野村(現金沢市坪野町)へ退隠し、法躰して才覚と号し、その子源兵衛が松任へ出で町人と成り、坪野屋源兵衛と名乗り、始めて種油を製造します。その子は藤左衛門と云い、藤左衛門の子は多田油店の祖與助です。寛永(16241645)の頃に金沢へ出て木倉町に居住し、菜種油を商売しますが、正保年中岩谷牛右衛門(今の油車)の揚地に防火用の水溜があったのを、先祖與助が請ひ受けて、堀の跡に油車を建て、川を穿って常水を通じ、倉月用水を取入れ初めて水車を建て菜種油を製造したのが、後の多田油店です。

 

拙ブログ

牛右衛門橋からあかね屋橋まで≪鞍月用水②≫

http://capharnaism10.rssing.com/browser.php?indx=6214341&item=203

勘太郎川④倉月用水

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12296105085.html

本多町界隈一向一揆伝説③河合宣久

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12302040550.html

 

≪油車(水車)御歩町≫

水溜御歩町と混ずるため、油車御歩町とも呼べり。と改作所旧記には水車御徒町とあり。この辺りは、昔は歩士の邸地が有ったので町名になったと云われています。浅野川観音町の後町にも御歩町があり、観音御歩町も呼ばれました。ここも歩士の邸地で加賀藩では、時代のよりますが、46ヶ所御歩町があったといいます。

金沢では、御徒町の「徒」を「歩」と書くのは、「徒」は「いたずら」とも読めるから、“いたずら者の町”とも呼べるので、「歩」と書くようになったと聞きます。

 

(おかち橋)

 

≪旧丸田町と丸田橋≫

牛右衛門横町が、文政4年(1821)の町名改革の時、町名を丸田町と改名し、明治4年(18714月戸籍編成のおり、油車の旧称に戻り、今は橋名だけが昔を忍ばせます。

 

(今の丸田橋と旧丸田町界隈)

 

(牛右衛門橋)

この橋の近くに藩政初期、藩士岩谷牛右衛門屋敷跡が有ったことから牛右衛門橋といわれたそうですが、この鞍月用水が西外惣構の堀に繫がるため、重要な橋として橋番人が居たといいます。この辺りは牛右衛門の跡に本多家の下屋敷があり、岩間屋といわれていたが、後に茨木家の屋敷になり、下屋敷は手木町に隣に移転したという。

 

(今の牛右衛門橋と界隈)

 

(旧小鳥屋町と突き当たり今の肉の天狗中田本店)

 

≪旧小鳥屋町≫

元禄3年(1690)の火災記に、牛右衛門橋町・鱗町、水溜町、小鳥屋町と並び載っています。元禄9年(1696)の地子町肝煎裁許には、犀川小鳥屋町とあり、また浅野川懸作の材木町入口にも小鳥屋町があった。この町名は犀川小鳥屋町と呼びました。むかしここに鷹狩りの餌となる鳥屋がいたので町名となりました。油車より新竪町に出る小路で、明治4年(18714月戸籍編成で町名改革の時、油車合併になります。

 

(今の里見町)

 

里見町

藩政期加賀藩士里見氏の本家と分家に屋敷が向い合っていたことから、「里見町」の名がついたといわれています。享保(17161735)の頃までは後竪町と呼ばれ、文久(18611863)の侍帳には竪町とあり、藩政期「里見町」と呼んでいたのは俗称だったと思われます。里見氏の祖は七左衛門元照の苗字は日野氏ですが、外祖父の姓の里見氏を名乗り、寛永元年(1624)に加賀に来て利常公より1200石の禄をうけます。今、町は囲む土塀や、豊かな前庭の緑、その奥に控える母屋の大屋根など、かつて武士が暮らした町の特徴をよく留めています。

 

(茜染の元祖茜屋理右衛門)

茜染の元祖理右衛門は、但馬国出石の領主小出大和守の扶持人筒井長右衛門の弟で、当時、加賀には茜染が無いことから松雲公(綱紀公)に所望され、延宝2年(16749月但馬国出石より金沢に入り、軍用の旗指物等の茜染を命じられ、延宝4年(1676)の秋扶持・給銀などを賜り、あかね橋の先の竪町角家を居とし、鞍月用水で染物の御用を勤めますが、享保5年(1720)正月に病死。子孫は明治維新まで金沢に居たと云われていますが、次第に零落して家屋を売却して退去したという・・・。

(武田秀平(友月)と里見町)

武田秀平は、友月と号し木彫は優れ、巽御殿の謁見の間の欄間は有名ですが、幕末の加賀藩の武士で木彫に留まらず九谷焼の木米窯の継承者(民山窯)でもありまいた。姫路藩(兵庫県)藩士花井四郎兵衛の11男で、名は信興、陶号は民山。文化11年(1814)から加賀(金沢)藩に仕え、この町に住みました。竹澤御殿の出仕し、御細工方と金山主付を勤め、盆石、書画など多種多芸で知られています。

 

拙ブログ

マルチな遠所者、武田秀平 

https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwii4pWPy4bhAhURfnAKHRNODX0QFjAAegQICRAB&url=https%3A%2F%2Fameblo.jp%2Fkanazawa-saihakken%2Fentry-12010082463.html&usg=AOvVaw3sMHsdmNlVbYsJMPpmKsh5

 

(里見町の突き当たりに「大野屋」が見えます。明治44年の金沢市の地図より)

 

武田家の敷地は、明治になり大野屋という料理屋になり、金沢の政財界人で繁盛したと云われています。仲居として働いていたのが、犀星の実母と云はれているハル(佐部ステ)。後に犀生の父小畠吉種の家でお手伝いに入ったと云われています。また、また、この屋敷の隣の油車側(丸田町)に「武士の家計簿」に出てくる仕出し屋の大野屋があった事から、武田家が明治維新後、空き家になりそこで大野屋が事業を拡張したのではないかと勝手に推測しています。(大野屋は、武士の家計簿139pに「金沢城下で潤っていたのは、料理屋と僧侶であった」と云う下りがあります。)

 

(茨木町界隈)

 

茨木町

茨木左大夫(2500石)の屋敷跡です。元々茨木家は仙石町(現四高記念公園のアトリオ側)にありました。宝暦9年(1759)の大火により御用地(火除地)として上地になり、その替地としてその年に「奥村主水請地上地」である郊外の田町(約3000坪・現天神町)と火除町(約1700坪・現暁町)が提示されますが、「相望不申候」と断り、宝暦10年(1760「竪町筋本多遠江守請地之内上ケ地」(約900坪・現在地)を替地としました。これが「茨木町」の町名の由来です。

(茨木家の知行当たりの歩数は750坪なので、約150坪は本来請地となり、地子銀を払わなくてはならないのですが、御用地の替地のため、先例により請地ではなく拝領地扱いとなったのだといわれていいます。結果としてゴネ得?)

 

(金澤市町家情報館・茨木町)

 

(新竪町校下の項・おわり)

 

参考文献::「金沢古蹟志」第513巻・14巻 森田柿園著 金沢文化協会 昭和92月発行・新竪公民館創立50年記念誌「しんたて」金沢市新竪町公民館 平成153月発行


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