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Channel: 市民が見つける金沢再発見
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旧下本多町6番丁畳屋橋・旧金沢一中跡

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【広坂1丁目・本多町】

金沢橋梁記によると畳屋橋は本多家の中入口にあり、この橋は惣構堀の通路の橋で、この橋辺りより西外惣構の堀を掘り始めたと伝えられています。旧藩中はこの橋詰に惣構番人の家屋があり、橋番人に畳屋理右衛門という人がいて、数代に渡りここに居住したことにより畳屋橋と呼ばれたと云われています。貞享、元禄の頃の「捨子届書」に長屋平左衛門前惣構番人理右衛門と書かれているのは、畳屋理右衛門の住居は長屋平左衛門の屋敷の並びにあり、長屋平左衛門家とは、後に彦三に転居する藩の中級武士でした。

 

(現在の畳屋橋)

(寛文7年の地図より・石川県立図書館蔵)

 

惣構番人(見張り番)

旧藩中は惣構堀往来の橋詰に、惣構番人を45或は23づつ置かれ、橋詰に邸地を賜り、ここに居住して惣構の締方を仰せ付かっていて惣構橋番人と呼ばれていました。惣構肝煎の支配で、この番人の家共を会併して、これを惣構組と称していました。金沢町会所にある貞享、元禄年間(16841794)の捨子届書留帳に、場所と番人の名前が書かれていますが、ここでは省略して、場所と人数を書きます。ただし、畳屋橋と宮内橋の原文通り名前も記載します。

 

 

(現在の西外惣構堀)

 

場所と人数:長屋平左衛門前惣構番人(畳屋橋)2人、宮内殿橋惣構番人2人、御徒衆町橋番人2人、御厩橋番人2人、香林坊橋惣構番人2人、鬼川橋番人2人、東末寺前惣構番人2人、塩屋町土橋惣構番人2人。

 

長屋平左衛門前惣構番人  理右衛門  彦十郎

宮内殿橋惣構番人     興三兵衛  九兵衛

 

畳屋橋辺りから小立野の崖下辺にかけて昔、毎朝、他所より霞が深かった事によることから“霞ヶ野”と呼んだと云われていたと伝えられています。

 

(本多通りの新道と旧道の分岐点畳屋橋辺り・中央の樹は30mのモミの大樹)

 

畳屋理右衛門: 元禄3年(1690)の届書には、与合頭理右衛門とあり、惣構組の組合頭を勤めたものと思われます。これより後、理兵衛、理三郎、理助と称し、代々畳刺しを職業とし、猿楽の連師を勤めたとありますが、由来は詳らかではありませんが旧家であったと云われています。家伝の品に長刀一振、直江志津の小脇刺、後藤祐乗作の目貫があったが、宝暦の大火で小脇刺が半ば焼身となったという。畳屋橋の畳屋は元禄の頃より居住すると云われているが、この橋名はこれより遥か以前の旧記にもあり、この家かどうかは分かりませんが、かなり前からこの地には畳刺がいたようです。明治6年(1873)秋、理助という者がこれまでの家を取り壊し、この地と退去したと「金沢古蹟志」に書かれています。

 

長尾家:「亀尾記」には、真行寺の州岩は、木村長門守重成の娘で長屋平太夫に嫁す。と記され、夫没後、尼になり真行院と号し庵室を造立し居住したのが州岩で真行寺の開祖だと書かれているそうです。「金沢古蹟誌」によると長屋系図に、元祖平左衛門某、文禄2年(1593)利長公に召抱えられ1400石を賜り、2代七郎右衛門慶長8年(1863200石を賜り、後に1200石拝領。(幕末の当主長屋八之門は2030石拝領)馬廻組を勤め、妻は木村長門守重成の娘と書かれています。しかし「亀尾記」は、何を根拠に載せたのかは詳らかでないそうですが、長屋家が真行寺の檀家であったことは確かなようです。

 

拙ブログ

欠原(がけはら)のお寺③真行寺

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12292483580.html

 

 

(旧一中跡地を示すモミの樹)

 

旧金沢一中跡

金沢一中の前身は、明治21年(1888)真宗大谷派金沢教校と石川県が設置した私立共立尋常中学校で文部省の許可学校となり開校します。明治25年(1892)に大谷派の単独経営となり一旦大谷尋常中学校となり、翌年5月廃校が決定に伴い校舎(現在の本町1丁目、校舎跡地は西福寺西隣の境内の一画)と生徒はそのままに明治26年(18937月に県立に移管され石川県尋常中学校(後の金沢一中)として開校しました。明治30年(189710月、本多町の本多家中屋敷跡に新校舎を建築移転。45年後の昭和12年(1937)冨樫町(現泉野出町3丁目)に再度移転します。(真宗系の生徒の一部は京都の大谷尋常中学に転校)

 

(明治14年(1881)開校の石川県専門学校は6年制で、3年間は予備科で中等教育をしていたらしい)

(石川県立図書館は旧一中の跡地)

(本多通りの旧道とモミの樹の表示板と旧一中の敷地が分る土手)

 

(石川県の県立中学校の始まりは上記の通り石川県立尋常中学校で明治26年(1893)です。始まりは他県から見ると遅れ気味に思えますが、その間、前身の真宗大谷派金沢教校と県が出資した私立共立尋常中学校が応分の ステイタスを擁したとおもわれますが、内容は一切不明。しかし、明治20年(1887)の四高設置もあり県の財政難から致し方なかったものと推測されています。)

 


(旧一中・泉丘発祥の地・本多公園に立てらている櫻章校跡地碑)

(右の金沢歌劇座は、当時、旧一中の運動場)

(旧一中跡の30mもあるモミの大樹と2本の赤松)

 

(現在の広坂1丁目の地図googlemapより)

 

参考文献:「金沢古蹟志」第5編 森田柿園著 金沢文化協会 昭和92月発行他

 


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