【菊川1丁目】
旧長柄町
ここは、昔、御長柄として、藩主の長柄槍をもつ小者の宅地で、小者小頭には30坪の土地が与えられたと書かれています。この地を長柄小者の宅地としたのは高澤忠順の「時代適要」には長柄御小人300人、諸郡より家割で召し抱えられる旨、万治3年(1660)4月26日にお触れが出たとあり、改作旧記に算用場より郡奉行の達書が出され、諸郡の十村が集めたとあります。加賀、能登、越中の三ヶ国で148,640軒に対し長柄小者(小人)300人とし、新川郡(2,760軒)40人、砺波郡(3,000軒)40人、とみ中郡(2,000軒)32人、能美郡(1,240軒)20人、石川郡(3,170軒)50人、河北郡(1,810軒)22人、羽咋郡・鹿島郡(2,280軒)37人、珠洲・鳳至郡(2,410軒)39人が召し抱えられ、長柄町はこの時に住まわせた土地だと言われています。後に長柄小者はしだいに転住して普通の地子町になりました。
(旧長柄町の石柱)
(今も鞍月用水に架かる長柄橋)
(長柄小者(小人)は、三間の槍を持つ槍持ちで、その者を御長柄といい、御長柄小人と云ったという。1日銀1匁2分宛与えられ、よく働いたものには褒美を賜ったという)
(今も旧長柄町を流れる鞍月用水)
(今の旧長柄町辺り)
(台所町の石柱)
旧台所町
この地は藩政期には台所同心、藩の台所付き軽率の組地で、変異記に享保7年(1722)3月11日夜、台所町同心2軒焼失したという記事が載っています。ここは元笠舞村の田圃で、藩の用地になり、同心板前の組地になりますが、延宝の金澤図に記載がないことからも、組地になった時期ははっきりしません。どうも以前、同心組地は石浦新町にあったらしく、元禄の頃に笠舞村に移転したと伝えられていますが、時期については定かではないという。
(安政の絵図・台所組地周辺)
≪台所付板前≫
「菅君雑録」には、元禄14年(1701)6月4日御台所御料理人7人、扶持之者5人、30俵宛仰せ付かるとあり、且つまた、今まで板前の者は定番足軽に仰せ付けられ160匁にて勤め小人板前を相い勤め、名目は板本と改め脇差を許されます。元来、板前とは俎板前の略称で、料理人の下役にて、魚類の鱗を取るなどの下料理をするのが仕事で、それを板前と称したもの、料理人は「包丁者」と言われていました。慶長10年(1605)の前田利長公越中養老付士帳に御台所衆、80石包丁人然る所、30石包丁人中村市助などが見えます。
(旧台所町1~7番丁まである小路)
≪包丁人伝≫
高徳公(利家公)夜話録に、包丁人について以下の記述があります。慶長4年(1599)2月29日徳川内府(家康)と仲直りし、大坂を立ち橋本に宿泊され、月末に船で徳川内府(家康)がお越しになり、内府(家康)、大納言(利家公)様を殊の外に気を遣い、大納言様(利家公)に御台所衆一人御料理所へ入るよう云われ料理人が参上します。これは毒に気遣ってのことで、「こい塚」という料理人を遣わしたとあり、後に慶長10年(1605)利長公の富山養老士帳に、歩衆50石恋塚作太夫とあり、この人が同人であったかどうかはよく分からないそうですが、藩政初期から藩政期を通し、包丁人は、事の他重要な役目を担っていたことが分かります。
(現在の旧台所町1番丁の通り・付き当たりは猿丸神社、手前の犀川上菊橋)
≪御台所奉行の起源≫
御台所奉行の起原は、承応3年(1654)12月御定書にその趣が見えるが、姓名及び職名の著明なのは、寛文8年(1668)前田弥五作が命ぜられ、延宝2年(1674)に免ぜられたのが初めで、その後野村四郎左衛門が勤め、貞享4年(1687)3月24日宮井武兵衛、元禄5年(1692)4月内藤市郎兵衛之を命ぜられ、この時まで皆平士役であったが、元禄12年(1699)6月7日坂野忠兵衛長高が命ぜられてから頭分の職となり、役料100石を賜った。宝永2年(1705)4月長高が病死し、6月4日稲垣八平安定が命ぜられ、宝永7年(1710)8月19日免ぜられ、同月21日青木新八郎篤淳、同月29日高山藤右衛門元長が命ぜられて、以後両人充連綿し、役料100石を受けたとあります。
(旧菊川小・2019年は廃校になり新竪町小と合併建替え、犀桜小学校とてし開校)
文政2年(1819)に川上新町に定芝居小屋を置いた時、その付近に菊川町、竹嶋町、末吉町などの新町名を設けた。しかるに明治4年4月の戸籍編成の際、竹嶋、末吉の両町を合併して菊川町のみとした。菊川町としたのは、犀川を菊水川と雅名でしたのであろうかと・・・、日置謙の「加能郷土辞彙」にあります。
(昭和27年の地図をベースに旧町名)
現在の菊川1丁目は、藩政期から戦前まで町端で、私の子供の頃でもすぐ隣の笠舞は町になっていましたが、田圃や畑が連なり家々には牛舎もあり、農業に従事していた家が多かったように思います。今の菊川1丁目の旧町名は、旧長柄町や旧台所町の他、旧川上新町1丁目、2丁目、3丁目、旧菊川町、旧梅ヶ枝町、旧松本町、旧新長柄町、旧角場川岸町があり、昭和39年4月1日町名変更で菊川1丁目になり、ところによっては1部、菊川2丁目、城南2丁目になりました。
(長柄町に永順寺(ようじゅんじ)真宗大谷派・幕末から明治に掛け全国的に活躍した石川舜台のお寺で有名)
金沢市ホームページいいね金沢(旧町名~現在の町名一覧より)
川上新町・もとの犀川の河原に堤防を築き、外側を埋め立てて新しく町地としたことによる。1丁目から3丁目があった。地子町の一つ 。 現在菊川1丁目
松本町・ 文政6年(1823)川上新町から立町された。地子町の一つ。川上新町から立町された八町の一つ 。現在城南2丁目、菊川1・2丁目。
角場川岸町 町名は角場(鉄砲の射的場)と犀川川岸に因むと推測される。地子町の一つ 。現在城南2丁目、菊川1丁目。
長柄町 藩政のころ、参勤交代のときなどに長柄の槍を持つ人の組地があったので、この名がついた 。現在菊川1丁目
台所町藩政政時代、この地に台所付足軽屋敷などの組地があったことから、この名がついた。1番丁から7番丁まであった。現在城南2丁目(1・2番丁)、菊川1丁目。
(金沢市ホームページ「いいね金沢」には、旧梅が枝町、旧菊川町、旧新長柄町の記載がありません)
(町内に掛けられている町案内の掲示板の部分)
参考文献::「金沢古蹟志」第5編 森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年2月発行・「加能郷土辞彙」日置謙編 金沢文化協会 昭和17年1月発行・金沢市ホームページいいね金沢(旧町名~現在の町名一覧より)